宗教とは何か―いまどき宗教を本気で信じてる人ってどうなの?(1/2)

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どうしても理解できないものの一つに、宗教というものがあります。いまや神などというものはどう考えても存在していないはずなのに、それを信じる人がいることが、どうしても私には理解できないのです。

いまだに本気で信仰している人は現実を直視できないバカなのだと切り捨てることはできます。しかし、すべての行為者は合理的に選択するという(合理的選択理論的な)前提に立ってみると、現代においてさえ、宗教には重要なメリットさえあるのではないか、と考えてみたくなります。


宗教の中身を見るか、外側を見るか――宗教の本質的理解と機能的理解

宗教にはどのようなメリットがあるかを理解するためには、宗教が何であるのか、その定義について考えなければなりません。「『宗教とは何か』―宗教を学術的に議論するための基礎」*1という論文がありましたので、ここではそれを読みつつ考えていきたいと思います。

まずこの論文の著者であるヨアヒムさんによると、宗教については、「本質的」な定義と、「機能的」な定義があるそうです*2

「本質的」な理解というのは、様々な宗教に共通する内容や「本質(Substanz)」は何かということを問う方法です*3

それに対して「機能的」な理解とは、宗教が「何」であるかよりも、それが社会に対してどのように機能(Funktion)しているか、あるいは宗教の社会構造を問題にします*4

極端に言えば、機能的に理解するうえでは、宗教の中身など全くわからなくてもよくて、宗教と社会との関わりがわかればそれでよいというわけです。それに対して、実体的な理解では、各宗教の共通点がわかれば、その背後にある社会との関係はそれほど気にしなくてもよくなります。もちろんこれは極端に違いを強調すればそうなるというだけで、実際には両方のバランスが必要になるでしょう。

神の信仰または聖の経験――宗教の本質的理解

この論文によると、宗教の本質的理解として、19世紀末の文化人類学者であるタイラーの説があります。それによると、宗教は「精神的存在への信仰」ということになります*5。目に見えない非物質的なものを信じるのが宗教ということになるでしょうか。

タイラーの流れを組む文化人類学者であるメルフォード・スパイロが1960年代に提唱した定義によると、「文化的に要求された超自然的存在との文化的にパターン化された相互作用から成り立つ制度」ということになるそうです*6。神が実在するかはともかく、文化として、神を含め超自然的存在との相互行為が行われていれば、それが宗教だということになるそうです。

しかしこれらの定義には問題があるそうです。初期仏教がそうであったように、全ての宗教が神や超自然的存在を前提にしているわけではないようなのです*7。確かにブッダの時代の仏教というのは、どちらかというと哲学的な議論が中心であり、その意味ではあまり神がかっていません。

それに対して、宗教の本質は「聖なるもの(Heilige, Holiness)」にあるという見解もあります。ナータン・セーデルブロムという宗教学者や、ルドルフ・オットーという宗教哲学者が、19世紀末の社会学者デュルケムの宗教研究を参考にして、この説を唱えました。

私としては神でも聖でも同じじゃないか、と思うわけですが、神や超自然的存在は「名詞」であるのに対して、「聖なる」というのは「形容詞」になるわけで、その分いくらか抽象度がまして、適応可能性も広がりそうな気がします。日本語でも「ハレ/ケ」という概念があり、これが「聖/俗」に対応していそうにも見えます。

しかし形容詞的な表現には、どこか捉えどころがないところがあるのも事実です。そしてこの「聖なる」という用語のもとで何が考えられているのか、今日ではますますわからなくなっているという批判が起こっているそうです*8。結局のところ、もともとなんだかよくわからないものを「聖」という言葉で言い換えただけなんじゃないかというわけです。

学問的な定義の問題はおいといても、私にはこれらの定義には疑問が起こります。つまり、「神」であれ「超自然」であれ、「聖なる」ものであれ、科学が高度に発達した今の時代、果たしてこんななんだかよくわからないものを本気で信じる人などいるのでしょうか。

伝統社会の名残で信じているだけというならわかります。現代では「神は死んだ」のだが、そうは言っても伝統や風習として残っているのだと。しかし現在の宗教をめぐる状況はそれほど簡単ではありません。私を含め、宗教を全く信じない人がいる一方で、極めて過激に宗教を信じる人も増えています。原理主義という、本気で宗教を信じていなければありえないような考えが、イスラム教のみならずキリスト教にも広がっています。また集団自殺やテロをも厭わないほどの過激な新興宗教もあります。

なぜ信じるのかということは、おそらく宗教の内実(あるいは本質)をいくら見ようとしても明らかにできるものではないのかもしれません。その点で、機能主義的なアプローチというのは、私の疑問に答えるものになるかもしれません。

どうにもできない現実の承認――宗教の機能的理解

宗教の内実そのものよりも、宗教が社会的に果たす役割に注目する「機能的」理解として最も有名なのは、マルクスの「宗教は人民のアヘンである」、あるいはフロイトの「現実逃避」の手段としての宗教という理解でしょう。これらの理解に共通しているのは、本来なら宗教なんて無くてもいいのだが、現実に耐えられない一部の弱者のために幻想を提供しているということになります。

それに対して人類学者のマリノフスキは、一部の弱者に限らず、誰にとっても宗教は必要であると考え、宗教には死や災い、運命を克服する機能があると主張しました*9

同様に哲学者・神学者・社会学者のヘルマン・リュッベも、生きていくうえで「どうにもできないこと(Unverfügbarkeiten)」の文化的な承認が宗教の役割であるとしました。彼の説がマリノフスキと共通しているのは、宗教は一部の弱者のみならず、誰にとっても必要なものだということです。しかしマリノフスキと微妙に違うのは、死や災いの「克服(überwinden)」ではなく、文化的に承認することで何とか「うまくやり過ごす(bewältigen)」のが宗教であるという点です*10

いずれにしてもこの2つの定義は、信仰のない私にとってはわかりやすいです。

仏教もまた「どうにもできなさ」について扱っていることは、素人の私にもわかります。例えば仏教用語でいわれる「四苦(生・老・病・死)」は、どんな人にも訪れる苦しみですし、また「愛別離苦」(愛する者と別れる苦しみ)、「怨憎会苦」(うらみ憎む相手に会う苦しみ)、「求不得苦」(求めているものが得られないことから生じる苦しみ)なども、誰もが一度は経験するような、避けることのできない苦しみです。仏教は、こうした「どうにもできないこと(Unverfügbarkeiten)」を克服する知恵、あるいは、克服しないまでも何とかうまくやり過ごす知恵である言えるでしょう。

この定義を用いてみると、現代においてもなお宗教にはそれなりの合理性があるといえます。不老不死の技術がない以上、現代においても死の恐怖から逃れることはできません。さらに愛する人を失う悲しみなどは、人間が人間である以上、完全に逃れることはできないのです。宗教は、こうした不条理を受け容れるように作用するというわけです。

ただしこの定義では、宗教を必要してるのは、一部の(不幸な)人たちだけなのか、全員なのかが、はっきりしません。たとえば死の恐怖は、確かに誰にも訪れるものですが、私ならそこで宗教にすがろうとは思いません。死は恐ろしいとは思いつつも、あまり真面目に考えずに気がついたら死んでいたというのが自分の最期ではないかと予感しています。人間関係の苦しみに対しては、宗教より友達からのアドバイスを求めるでしょう。たとえそれが一時しのぎで根本的な解決になっていなかったとしても全然構いません。もし私が宗教にすがるときがあるとしたら、突然病院で余命数週間を宣告されたときのように、他人とは比べられないほど深刻な不幸が訪れたときくらいでしょう。

結局のところ、「どうにもできないこと」の承認という定義だと、それに絶えられないほどの弱い人間か、あるいは極端に不幸な人間だけが宗教を必要としているということになります。そうしてみるとこの定義は、マルクスやフロイトのいう「現実逃避」とそれほど変わりのないものではないでしょうか。

別にだからといって宗教にすがる人をバカにしているわけではありません。現実逃避は、あまりにも過酷な現実にいる人を守るための有力な手段だと思います。しかし別の定義を見てみると、宗教はたんに不幸な人だけでなく、幸福な人であっても必要とする、より一般的なニーズであるという見解もあります。

というわけで、次の記事でもうひとつ別の定義を参照してみたいと思います。


*1: Heil, Joachim, 2010, "Was ist 'Religion'?: eine Einführung in unser wissenschaftliches Reden über Religion", Internationale Zeitschrift für Philosophie und Psychosomatik, Ausgabe 1/2010.
*2: 同上p.7
*3: 同上p.7
*4: 同上p.9
*5: 同上p.7
*6: 同上p.8
*7: 同上p.8
*8: 同上p.9
*9: 同上p.9
*10: 同上p.9

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