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不安のパラドックス―不安は解消しようとするほど高まる?

不安を生みだす状況はどんどん減っているはずなのに、不安を感じる人はどんどん増えているということがないでしょうか。そのよい例は、治安についてです。統計的に見ると、現在の日本社会は昔と比べても、あるいは世界と比較しても、極めて治安がよい社会であるにも関わらず体感治安、つまり自分が犯罪被害にあうのではないかという不安はますます高まっているのです。どうしてこういうことが起こるのでしょうか。

The Scream

安全保障のジレンマ―安全は保障しようとするほどできなくなる?

8月15日に終戦記念日を迎えたこともあり、今回は、現在の日本の安全保障政策と憲法9条について考えてみたいと思います。

他国の軍事的な脅威があるなら、抑止力を高めることが必要だという主張があります。しかし、こちらの抑止力を高めることが、相手に軍事的脅威だと認識されたらどのようになるでしょうか。相手もまたさらに抑止力を高めようとするでしょう。そうなったとき、こちらもさらに抑止力を高めなければなりません。しかし相互に抑止力を高めあえば、際限ない軍事費を前に双方とも損をすることになります。

US and USSR nuclear stockpiles

音楽に政治を持ち込んでもよい条件―芸術の自律性のパラドックス


フジロックにSEALsの奥田愛基氏さんが出演することに対して、ツイッターで「音楽に政治を持ち込むな」という非難が起きていることが話題となっています。

ここでは音楽(芸術)と政治の関係について次の2点から考えてみたいと思います。

(a) 絶対に芸術に政治を持ち込んではならないという考えは、本当に非政治的なのか。
(b) 時には芸術に政治を持ち込んでもよいという考えは、本当に政治的なのか。


Joan Baez Bob Dylan

日本人は日本を批判できるのか―自己言及のパラドックス



Paradox


「自己言及のパラドックス」と呼ばれるものがあります。「クレタ人はいつもうそつき」だとクレタ人が言うことはできないというパラドックスです。もしクレタ人が本当に嘘つきなら、「クレタ人が嘘つき」だというそのクレタ人も嘘つきになるからです。

このパラドックスを応用すると、日本人が日本を批判することはそもそも不可能にならないでしょうか。「日本は間違っている」と日本人が言うなら、その日本人そのものの見解が間違っていることになるのですから。

そこで疑問が生じます。自己批判などというものは、実際にはどうやったら可能なのでしょうか。