不安のパラドックス―不安は解消しようとするほど高まる?

不安を生みだす状況はどんどん減っているはずなのに、不安を感じる人はどんどん増えているということがないでしょうか。そのよい例は、治安についてです。統計的に見ると、現在の日本社会は昔と比べても、あるいは世界と比較しても、極めて治安がよい社会であるにも関わらず体感治安、つまり自分が犯罪被害にあうのではないかという不安はますます高まっているのです。どうしてこういうことが起こるのでしょうか。

The Scream


不安を引き起こす要因

2014年に内閣府が実施した調査によると、「不安を感じる」とする者の割合が69.0%で、やはりほとんどの人が不安を日常的に感じていることがわかります。そのうちで挙げられた原因の上位3つは、「健康状態の悪化」(50.3%)、「大規模な自然災害の発生」(47.9%)、「公的サービス水準の低下」(42.1%)でした[1]

ここ10数年のスパンで見てみると、確かにこうした不安を感じることには正当な根拠があります。年金などの社会保障が今後ますます悪くなることが予想されますし、東日本大震災は自然の脅威を克服することがいかに困難であるかを私たちに明示ました。また日常生活においても、ガンや糖尿病など取り返しのつかない病気を起こすリスクで溢れています。

しかし100年くらいのスパンで見てみるとどうでしょうか。結核やコレラのリスクはほぼなくなり、平均寿命は伸びていく一方です。地震はまだまだ脅威ですが水害の犠牲者はほとんどいなくなりました。5千人近い犠牲者を出した伊勢湾台風のような災害はもう起こらないと見てよいでしょう。そして公的サービスの低下といいますが、そもそも戦前には今日のような社会保障はほとんどありませんでした。

不安を感じるのは甘えだなどと言いたいのではありません。私が言いたいのは、社会や技術が進歩しても、不安が減少するとは限らないどころか、ますます不安を感じるようになっているのではないかということです。そうだとしたらなぜこのようなことが起こっているのでしょうか。

今回は社会学者イェルク・ベルグマンの「不安コミュニケーションのパラドックス―不安のいまむかし」[2]という論文がありましたので、これを読んでみたいと思います。

不安のパラドックスを引き起こす要因

ベルグマンは、現代社会の不安は、極めてパラドキシカルな状況によって発生しているという前提から分析を始めています。つまり、現代に存在する不安というのは、かつての人々が不安を解消しようと作りだしたものそれ自体から生みだされているというのです。このような彼の構図は、ドイツの社会学によく見られる論法であり、彼自身のオリジナルというわけではないでしょう。例えば社会学社ニクラス・ルーマンのリスクに関する次のような発想とかなり似ています。
傘というものが存在していると、人はもはやリスクから逃れて生きられなくなる。雨に濡れる危険は、傘を持って行かないリスクに代わる。しかし傘を持っていくと、それをどこかに忘れてくるというリスクを冒すことになる。[3]
傘という技術が全く存在しない古代社会では、雨に濡れるというのはただの「危険」です。つまり、それは自分とは無関係の外部世界の話で、自分でどうにかなるものではありません。しかし一度傘が普及すると、いまや雨に濡れるかどうかは、自分自身でどうにかしなければならない「リスク」の問題になるのです。もちろん雨に濡れたくなければ傘を持って行くでしょう。簡単なことです。しかし今度は傘を忘れるというリスクにさらされることになります。だったら傘にGPSを埋め込んで、忘れた傘の位置をすぐに調べられるアプリが開発されるかもしれません。しかしこうした小型追跡装置はストーカーに利用されるリスクを生むかもしれないのです。

一度この循環に陥ると、いくら不安を解消しようとしてもすぐに別の不安を生みだすことになるのです。それどころか不安を解消しようとすればするほどますます不安が高まるという結果に行き着きかねません。

このような解決不可能性と同じ構図を、ベルクマンも前提にしているのです。具体的にでは彼の議論がどのようなものか、見ていきたいと思います。

知識

彼によると、まず不安を引き起こす最大の原因は、「知らないこと」にあると言います。自分ではどうにもできず、説明すらできない外的な環境の存在が不安を引き起こすのです。その事例として挙げているのがかつての伝染病です。14世紀にはヨーロッパでペストが大流行し、凄まじい犠牲者を出したことは有名ですが、その当時はどうしてそのような疫病が起こるのか、医学的に説明することはできず、有効性のある対策はほとんど取りようがありませんでした[4]

「知らないこと」に対する恐怖や不安を根本的に解決したのは、ヨーロッパの啓蒙主義思想でした[5]。人間が科学的・合理的・理性的に行動すれば、あらゆる問題を解決できると考えられるようになったのです。実際19世紀終わりごろには、ペスト菌の発見によって、ペストがどういうメカニズムで発生するのかについて完全に理解されるようになり、今日ではもはやペストについての直接的な不安はほとんどなくなりました。

しかしこの啓蒙主義思想は、20世紀に根本的な挫折を経験するに至りました[6]。「知らないこと」が不安の原因であるだけでなく、「知ること」もまた新たな不安を引き起こすことが、明らかになったのです。

2つの世界大戦はこれまでの戦争の常識を根本的に変え、最新の科学技術をどう導入するかが勝敗を左右するようになりました。その結果、マシンガンや毒ガスなどの大量殺戮兵器が著しく発達し、最終的にそれは核兵器の開発にまで至ります。このことは理性の象徴としての科学が、大量殺戮という最も非理性的で野蛮な結果をもたらすというパラドックスの存在を浮かび上がらせました。戦後アドルノやホルクハイマーといった社会科学者たちは、『啓蒙の弁証法』という本を出版して、啓蒙主義が非啓蒙主義的な帰結を生むというパラドックスを本格的に問題にするようになりました。

しかしこの問題は、戦争だけにはとどまりません。ベルグマンは、膨大な情報が記載された薬の説明書や、食品添加物のリストをみれば、誰でもこのパラドックスを経験するといいます。知れば知るほど「知らないこと」は増大していくのであり、「知ること」は不安の解消には役立たないのです[7]。

メディアとイマジネーション

「知らないこと」は不安の原因になりますが、知ることもまた「不安」を生みだす。このパラドックスをさらに助長しているのがメディアです[8]。インターネットを使って経験するのは、世界のすべてを何でも知れるという万能感ではなく、情報は無限にありとてもすべてを知ることはできないという不安かもしれません。ニュースは、「知らせる価値のある」と思われる情報をいつも過剰に演出し、スキャンダル化します。このことによって全く起こる可能性の少ないことが、ますます身近な脅威として感じられるようになります[9]。こうして、メディア技術の発達は、ますます不安のパラドックスを引き起こしているのです。

技術

たとえ「知ること」に安心作用があるとしても、それを現実にするためには具体的な技術が必要になることがあります。この意味で技術は不安予防(Angstprävention)措置であるとベルグマンは言います[10]。朝の歯磨きから夜の戸締まりに至るまで、これらの技術は不安を抑制する効果を持っているのです。とはいえ、技術は不安を予防しても安心をもたらすわけではありません[11]。問題は技術にかかる金銭的・時間的コストです。情報の漏洩を防ぐためにはパスワード設定が何よりも重要です。しかも長くて複雑なパスワードほど安全性は高まりますが、そのぶんパスワードを忘れるリスクが新たに出てくるというジレンマに悩んだことがある人も少なくないでしょう[12]。

社会学者のウルリッヒ・ベックは、近代的な技術がもつこのパラドックス効果に着目して、1986年に『リスク社会』という本を出版しました[13]。何かをコントロールする技術には、コントロールできない危険性が含まれているというパラドックスが問題になりました。この本が出版された年はチェルノブイリの原発事故が起こった年であり、彼の本は大きな反響を呼びました。

結局のところ、不安予防装置としての技術が、不安そのものを生み出していくという構図があるのです。

宗教

前回の記事で、宗教の社会的機能は、「どうにもできないこと」への説明や受容にあるという考えを紹介しました。そして、今回の記事では、人々が不安を感じる根本原因は、「どうにもできないこと」があるからということを紹介しました。この意味でベルグマンもまた宗教とは、不安をうまく処理する制度であると論じています[14]。先程の例で言うと、ペストが14世紀に大流行し、科学的な解釈も、予防技術も持たなかった状況のなかでは、宗教的な説明が最も説明力を持ちました。しかし、それは人類が神の怒りを買い天罰が下ったものとしてでした。

宗教は、不安を抑制する効果を持つ一方で、不安を生みだす作用もあるとベルグマンは指摘しています[15]。宗教的な解釈から不安を除去しようとすると、天罰や悪魔といったものへの不安が増大するのです。彼自身は指摘していませんが、もしかすると14世紀にペストが収束したあと、15世紀に魔女狩りが本格的に始まったのは偶然ではないかもしれません。ペスト問題の不安解消を宗教解釈に依存した結果、今度は神の怒りを買いそうな異質な存在に対して迫害を強めるようになったのです。もちろん、実際には魔女狩りの原因は本質的にはよくわかっておらず、これは単なる解釈に過ぎませんが。

いずれにせよ、宗教もまた、不安を抑制する効果と、不安を増大させる効果とを同時に持ちあわせうるのです。

自己規律

人間にとって不安の原因は、自然現象だけではありません。他の人間からの干渉もまた人間にとって脅威の対象でした。とりわけ近代以前の社会では、自分の人生をどう生きるか、労働、恋愛、結婚、居住を含めそのすべては他人(家族や、所属する家族の社会的身分)に決められていました。
近代化が進むと、他者からの干渉は少なくなり、そのかわりに自己規律が重要になります。ベルグマンによると、社会学者のノルベルト・エリアスは、「文明化」というものが、他者からの強制から、自分自身による強制へと移り変わることであると主張しました[16]。いまや領主どころか家族さえ、自分自身の人生について口を出さないようになり、すべては自分で決め、自分で責任を取らなくてはならなくなります。

しかし、自己規律という振る舞いもまた、別の不安を引き起こします。すなわち、「マナー」を破ると炎上するというリスクです。現代社会におけるマナーとは、他者から具体的に注意することなく、相手を察して自分自身をコントロールしなければなりません。公共の場で騒ぐ行為は、しばしば自制が効かなくなったとして非難の対象になるのです。その結果、恥をかいたり笑いものになるリスクがますます高まり、自分点検を怠らないようにしなければならなくなったのです[17]。

このようなパラドックスは、結婚や恋愛などでたびたび経験することではないでしょうか。いまやお見合い制度さえなくなり、家族が結婚に直接干渉することはほとんどなくなりました。しかし結婚の自由が増大すればするほど、ますます他のカップルや夫婦がどのように振る舞っているかが気になるのです。

見知らぬ人間(Fremde)の増大

ドイツ語には、Fremde(フレムデ)という言葉があります。よそ者とか、外国人、見知らぬ人、馴染みのない人という意味です。英語でいうストレンジャーでしょうか。近年、ヨーロッパでも難民が劇的に急増して、排外主義(Xenophobie)的な意見を持つ人が増えました。しかし、ベルグマンによると近代社会はそもそもこうしたストレンジャーが共存する社会であるとしています。

ベルグマンは、社会学者Alois Hahnによる「みんながストレンジャーになる時代(Generalisierung des Fremden)」という見解に同意し、かつてはストレンジャーと関わることは非日常的な出来事であったが、いまや誰もが日常的にそれを経験しており、それへの対応策を身に着けているといいます[18]。いまでは外国人だけがストレンジャーと見なされる傾向にありますが、よくよく考えてみると、日本国内をみても、方言が違いすぎて何を話しているのかよくわからない人たちが東京に移住してきた歴史があります。そしていまや同じ近所の人の顔も名前もわからないくらい、誰もが見知らぬ人なのですが、私たちはこのような状況をうまく受け入れて生活してきました。

ストレンジャーとの共存を可能にしたのは、寛容な心というよりも、社会学者ジンメルのいう「儀礼的無関心」というテクニックでした[19]。私たちは電車のなかでは他人の人と目を合わさないように振るまい、あなたには関心を持っていないという素振りをしなければなりません。ベルグマンはこのことは現代においては「クール(coolness)」という態度に集約されているといいます[20]。彼によると、クールとは他人に対して不安を感じていないことを表明する振る舞いだと言います。

しかし、ベルグマンによると、クールは、不安を持たないことを意味するのではなく、不安を見せないことを意味します。そしてこの態度は、自分が不安に思っていることを見透かされていないかという不安を生みだすと言います[21]。他者にビビってはならないという態度は、本当は自分がビビっていると思われているのではないか、という不安を生みだすというわけです。

おわりに

人類全体の長い歴史をみると、知識、技術、宗教、文化等、不安を払拭するための様々な社会的・文化的制度が作られ、そして発展してきました。しかし、これらの制度はどれもが不安を抑える効果と、新たに別の不安を生みだす効果の両方を兼ね備えています。だからおそらく今後も私たちの不安はなくならないどころか、とくにメディア技術を通じて社会的な知識量が増大していくことで、ますます不安は高まっていくかもしれません。

なぜこうした事態が生じるのでしょうか。このことはもはや哲学的問題であり、ここで安易に答えることはできません。しかし、不安を完全に除去することはできそうにないので、不安とは何らかのかたちでうまく付き合っていくしかないということが言えそうです。

  1. 内閣府大臣官房政府広報室「人口,経済社会等の日本の将来像に関する世論調査(平成26年度)」, http://survey.gov-online.go.jp/h26/h26-shourai/2-1.html, 2016年9月4日取得.
  2. Bergmann, Jörg, 2002, Paradoxien der Angstkommunikation: Über Veralten und Modernität der Angst, In: Jahrbuch für Gruppenanalyse und ihre Anwendungen, 2002(8), Heidelberg: Mattes Verlag, s.1-11.
  3. Luhmann, Niklas, 1993, Die Moral des Risikos und das Risiko der Moral, In: Gotthard Bechmann (Hrsg.), Risiko und Gesellschaft – Grundlagen und Ergebnisse interdisziplinärer Risikoforschung, Opladen, S. 327-338.
  4. Bergmann, Jörg, 2002, Paradoxien der Angstkommunikation: Über Veralten und Modernität der Angst, In: Jahrbuch für Gruppenanalyse und ihre Anwendungen, 2002(8), Heidelberg: Mattes Verlag. p. 3
  5. 同上p.3
  6. 同上p.3-4
  7. 同上p.4
  8. 同上p.10
  9. 同上p.10
  10. 同上p.4
  11. 同上p.5
  12. 同上p.5
  13. 同上p.5
  14. 同上p.6
  15. 同上p.6
  16. 同上p.7
  17. 同上p.8
  18. 同上p.8
  19. 同上p.8-9
  20. 同上p.9
  21. 同上p.9

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