なぜデモは必要か―進化論におけるデモの社会的機能

Bundesarchiv Bild 183-1989-1106-405, Plauen, Demonstration vor dem Rathaus

東日本大震災以降、日本では抗議デモが多く目立つようになってきました。脱原発、秘密保護法反対、憲法改正反対などのデモが記憶に残っていると思います。しかし、ざっとネットを見てみる限り、こうしたデモを肯定的に捉える意見よりも、否定的に捉える有識者の方が圧倒的に多かった印象があります。

しかしデモというものは、日本では珍しい感じがしますが、世界中あらゆる地域で日常的に行われています。だとしたら、デモには何らかの社会的役割があるのでしょうか。それとも感情に支配された群衆のバカ騒ぎなのでしょうか。私は今回、この問題について社会学の進化論的な立場から問題を取り上げてみたいと思います。

日本社会におけるデモへの認識

まずその前に日本ではデモがどんなふうに受け取られているのかについて見ていきたいと思います。

意思決定はデモでなく選挙によってなされるべき

デモが批判される理由として第一に挙げられるのが、デモによって意思決定をするということが民主主義に合わないというものです。ある日本の政治家が、デモとテロを同一視したような発言をしたことは有名になりました1。彼はその後、自分の発言を撤回しましたが、それでもデモによる意思決定は民主主義の制度には合わないというものでした。このような見方をする政治家としては、橋本さんも挙げられます2。彼はデモを擬似的な投票のように考えており、一部の少数派によるデモに政治的影響力を持たせるべきではないということになります。

そもそもデモには効果がない

またそもそもデモには効果がないという立場の人もいます。たとえばある社会学者によると、デモはもはや国民の大多数の人を象徴するものではなくなったのであり、一部の意見にすぎないというわけです3。おそらく彼はデモそのものを否定しているわけではないのですが、ロビー活動や住民投票などの別の政治的介入手段のほうがはるかに効率的であると考えているのでしょう。

またデモをする人たちの主張それ自体がそもそも「情弱」であり、「無駄」であり、非合理的であるという主張もあります4

さてそれに対して、数少ないながらもデモを肯定的に捉える人もいます。

「マインドボム(気づきの爆弾)」

デモは「マインドボム(気づきの爆弾)」だという見方です5。つまり、企業が広告を打って自社商品の存在に気がついてもらうように、デモも社会のなかで表面化されない意見や感情が存在していることに気づいてもらうという機能を持っているのです。

デモの必要性は、直接政策を変化させることができるかどうかではなく、社会的な議論を呼ぶきっかけになればいいというわけです。その意味では、東日本大震災以降の一連のデモが、「デモは無駄である」とか「デモをしている人間はバカ」という言説を引き出しただけであったとしても、議論のきっかけを作ったという点においては成功だったことになるでしょう。

社会の進化にはデモが必要――社会の免疫システムとしてのデモ

今回取りあげる論考は、プロテスト(抗議運動)についての進化論(社会システム理論)の考えをまとめたものです6。おそらく上記に挙げた見解のなかでは、一番最後の見解に近いものになると思います。この論考の最も中心的なテーゼは次のようになります。

あらゆる社会は進化を必要とし、進化はデモ(Protest)を必要とする7

デモは、「ノー」と言うことで、日常(ルーティン)的な規範からの逸脱とイノベーションを促進します。この意味で、デモは社会的な「変異(Variation)」だということになります。

もちろんすべての変異が、そのまま進化にはつながるわけではありません。様々な変異のなかから、ある種類の変異だけが「選択(Selektion)」されるのであり、そしてその選択が一回限りではなく再びルーティンとして「最安定化(Stabilisierung der Selektion dieser Variation)」しなければならないのです。しかしながら、そのためにはまず変異が多様なかたちでたくさん起こるということ(Viriationsvielfalt)が必要なのです8。デモはそれを可能にするわけです。

進化には変異が何よりも必要であるということは、たとえば企業を事例にすればわかりやすいでしょう。ある商品に対するクレームを常時、お客様サポートセンターで受け付けている企業と、客のクレームなど狂気に過ぎないとつっぱねる企業とでは、どちらが進歩的な製品を作れるでしょうか。もちろん、すべてのクレームが正しいとは限らないし、またクレームを聞くことにはたいへんな精神的苦痛が伴うこともあります。さらには客のクレームを聞きすぎてかえってあまり魅力のない商品しか作れなくなることもあるでしょう。しかし、変異を抱負にストックし、それを効率的に選択し、安定化させることが、進化であることは間違いないでしょう。

したがって問題にしなければならないのは、デモに効果があるか否かではなく、生じたデモについて私たちがどのように受けとめるかではないでしょうか。デモを起こす人はヒステリーをおこした異常者に過ぎないのか、それとも彼らには何らかの合理性が隠れており、それを採用するかどうか本気で検討してみるかどうかなのです。

デモの社会史

もちろんすべての社会が、デモや批判を許すわけではありません。

原始社会

原始的な部族社会においては、変異がすぐにシステム全体に影響を及ぼすと考えられていました。家族や部族など限られた閉鎖的な人間関係のなかで生活しており、システム(この場合、集団)は、神話と儀式によって絶えずアイデンティティを自己確認していたので、同質のもの=内部(見方)/異質なもの=外部(敵)という世界観しか持ちませんでした。異質なものはすべて外部の存在である以上、異質なものが自分たちの集団内部にどのような効果をもたらすのか、それを検証することは全くできませんでした9。当然このような社会では、現状に異を唱えるものはすべて敵ですから、そもそもデモが起こるということは不可能であったのです。

古代・中世の階層社会

それに対して、古代・中世の階層社会においては、世界観は、「ウチ/ソト」から「上/下(中心/周縁)」へと変わっていきます。この変化にともなって、変異に対する態度もより寛容になっていきます10

例えば世の中には高貴な人間と低俗な人間がいるという「上/下」の身分秩序は、現代の感覚からすると、このような社会も極めて排他的に見えますが、実は、異質なものはすべて敵だと認定するのではなく、自分たちの身分秩序を侵さない限りは、批判も許そうという寛容な態度が生まれてきます。中世の領主たちが、既存の身分秩序に収まらない芸術家たちを宮廷に招き、芸術のみならず政策への意見もさせていたという事例がよく聞かれます。いわゆるピエロと呼ばれる人たちです。

近代の機能分化社会

近代社会は、「ウチ/ソト」も、「上/下(中心/周縁)」も世界観としては通用しなくなります。その代わりに社会全体が、それぞれの専門化した社会システムに細分化されていきます。これを機能分化(funktionale Differenzierung)と呼ぶそうです。

近代社会は、抗議や批判に遥かに開かれた社会です。さしあたりこのような社会では、抗議を直接抑制するような制度は持たなくなります。しかし、問題もあります。それは、その専門性の強さにあります。たとえば法律は、社会全体に通底する本質(神の意志や、人間の本性)ではなく、実定法に変わります(法律的に保護するべき価値のあるものが法律的に保護される)。貨幣の価値は、金塊の量ではなく、中央銀行が保証します(経済的価値は経済的価値によって決まる)。この他にも学問やマスメディアなど様々な専門システムが独自の価値によって自律的・閉鎖的に動いていくことになります。その結果生じる問題は、次の点にあります。

目に見えるのは、自身にとって見えるものだけであり、他のものすべては不可視にとどまる11

例えば環境問題です。経済的に価値のある利益を追求した結果、経済は、経済の外部で生じる損害には、目を向けることができなくなってしまったのです。つまり専門化による無関心という構造的な問題が発生してくることになるのです。このような状況のなかでこそ、デモはその有効性を発揮します。それは「社会の内部で、しかし専門システムの外部」での批判を可能にするのです12

まさにこの意味で、デモとは、「気づきの爆弾」であるということができます。それは社会全体の「免疫システム(Immunsystem)」として機能します13。つまり、「ノー」を頭ごなしに否定するのではなく、「ノー」という意見を受けて、自らのシステムに異常が着たしていないかをチェックする、そのためにデモが必要なのです。

デモをする人は情弱と言われますが、デモの機能は、そもそも専門性が高まった結果、不可視になる問題をクローズアップすることにあるわけですから、デモをする人が専門性に精通しているかどうかは本質的にそれほど大きな問題ではありません。また、デモは社会全体を代表していないので無駄だという意見がありますが、マジョリティによっては見ることのできないものを見ることがデモなので、デモの意見が最初からマジョリティである必要もないのです。

おわりに:日本ではなぜデモが認められないのか

しかしながら、もし日本社会は、デモに対して寛容でない社会であるとしたら、日本社会は進化論的にどのように位置づけられるのでしょうか。

実はこの論考が問題にしているのは、近代化に充分に対応できず崩壊してしまった東ドイツです。まずもって東ドイツ社会は、各社会システムの専門性を一切認めませんでした。すべては党のイデオロギーに合致するか否かで判断されたためです。さらに、東ドイツは組織社会(Organisationsgesellschaft)であったことも指摘されています。つまり、組織の「メンバー」であるか否かが、最も重要な価値基準となっていたのです。社会構造そのものは、近代的であっても、擬似的な原始社会の「ウチ/ソト」の世界観が導入されていたのです。そのため、あらゆる規範からの逸脱はすぐに危険だと認知され、弾圧の対象になりました14

よくデモは左翼的だとみなされますが、実際に存在した左翼社会ではそもそもデモなど認められませんでした。しかしこれは外国のことだと笑っていられるでしょうか。日本にも東ドイツと共通する社会構造がないでしょうか。

日本社会は東ドイツと違って各社会システムの専門性は制度上認められていますが、しかし専門性を部分的に遮断する文化装置も持っています。しばしば言われる「癒着」は、政治、経済、学者、法律、マスメディアなどの各専門システム間の利害を調和・調停する役割を持っています。政治家がまるで科学者のように原発の安全性を判断し、学者はまるで政治家のようにエネルギー政策を顧慮して自身の科学的見解を変えると言った事態が生じるのです。東ドイツのように単一的なイデオロギーはありませんが、そのかわりに東大を頂点とするある種の階層秩序が専門分化を抑制する働きを持っているのかもしれません。

さらに日本社会も、東ドイツと同様に「組織社会」であると考えてみてもそれほど違和感はないでしょう。企業においてはいまだに「メンバーシップ」が重要な価値を持ちます。ここでは専門化された技術を持っているかどうかよりも「人間力」、つまり組織に対してどれほど忠誠を誓うかが問題になるのです。

組織社会の組織はメンバーシップの価値を確認するために、恒常的に儀礼を行う傾向があります。ネクタイの位置やスーツの裾の長さ、お辞儀の角度など儀礼のための極めてミクロな規定が設けられ、それに反した人間は排除の対象になります。今では少なくなりましたが、社員旅行や運動会、飲み会などの祭祀も定期的に行われます。なかには会社内に神社をつくる企業さえあるようです。こうして擬似的な部族集団が作りあげられるのですが、その帰結は、「同質のもの=内部(味方)/異質なもの=外部(敵)」という世界観が作りあげられることにあるのではないでしょうか。

もしそうだとすると、異質な人間が自らの異質性を自己表現することそれ自体が、社会に対する反逆だと受け取られます。したがって、デモもまた反逆行為となるのです。

結局のところ、デモをめぐる問題は、異質な人間をどう受けいれるのか、という点にあります。デモを受け入れられない社会は、異質な人間も受け入れることはできません。デモに懐疑的な見方をするのは、あんな異質な人間の主張をどうして受け入れなければならないのか信じられないからでしょう。しかしその先に待っているのは何でしょうか。東ドイツは、イデオロギーに基づいて異質な人間を絶えず排斥していった結果、国家そのものの崩壊を引き起こしました。私たちの社会は、そうならないことを祈るばかりです。


  1. The Huffington Post, 2013/12/02, 石破茂氏がブログの記述を撤回 「デモの参加者はテロリスト?」 特定秘密保護法案を危惧する声も, 2016/10/04取得.
  2. 橋下徹, 2015/08/31, こんな人数のデモで国家の意思が決定されるなら、サザンのコンサートで意思決定する方がよほど民主主義だ。 - 8月31日(月)のツイート, 2016/10/04取得.
  3. ニコニコニュース, 2011/11/21, 社会学者・宮台真司「デモはあまり意味がない」, 2016/10/04取得.
  4. LITERA , 2015/07/21, ホリエモン「デモに参加する奴らは情弱」太田光「デモなんかやっても無駄」…安保反対に水を差す文化人の当事者意識のなさ, 2016/10/04取得.
  5. 佐藤潤一,2012/09/12, 第10回デモで何が変わるのか?「非暴力行動」の意味と役割, 2016/10/04取得.
  6. Hellmann, Kai-Uwe, 1997, „Protest in einer Organisationsgesellschaft: Politisch alternative Gruppen in der DDR“, In: Detlef Pollack, Dieter Rink (Hg.), Zwischen Verweigerung und Opposition: Politischer Protest in der DDR 1970-1989, Frankfurt/Main und New York: Campus Verlag, S.252-278.
  7. 前掲p.253
  8. 前掲p. 253-255.
  9. 前掲p.256
  10. 前掲p.254
  11. 前掲p.259
  12. 前掲p.261
  13. 前掲p.262
  14. 前掲p.262-263

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