リアリズムの芸術―虚構と現実のはざまで

Adolf Friedrich Erdmann von Menzel 031

19世紀半ば、芸術スタイルの主流は、ロマン主義から写実主義(リアリズム)へと変わりました。ロマン主義が好む虚構性を廃して、現実をありのままに捉えるスタイルが流行したのです。

しかし芸術がありのままの現実を捉えるなどということは可能なのでしょうか。ロマン主義にとっては、現実から離れることこそ、芸術の存在意義を確立する根拠だったわけですから、リアルを模写してしまえば再び芸術の存在意義を失ってしまうことにならないでしょうか。なぜこんなややこしいことをわざわざするのでしょうか。前回の著書[1]を読みながら考察していきたいと思います。

on December 06, 2016 by Koutaro Yumiki | 1 comment 

ドイツ・ロマン主義の全貌―近代芸術は中二病から始まった

Friedrich Overbeck 008

今回は、ドイツ・ロマン主義という文学スタイルについて、社会システム理論の見地から扱ったゲルハルト・プルンペの研究を調べてみました[1]。しかし、このロマン主義というスタイルは、今日の近代芸術の開始点であるとされていながらも、調べれば調べるほどかなり理解するのが難しいことがわかってきました。

そこで今回は、ロマン主義を「中二病」の文学スタイルとして考察していきたいと思います。

ゲーテやシラーが古典と勘違いされる理由―古典文学の思想史

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文学史では、しばしばゲーテやシラーは古典(クラシック)として扱われています。しかし彼らは、どうしたら古典に縛られないですむかに四苦八苦していた作家でした。脱古典主義者が、古典と見なされるというのは何とも可哀想です。なぜこんなことが起きたのでしょうか。今回はこの問題について、社会学者ゲルハルト・プルンペの論文[1]から考えてみたいと思います。

芸術には思想が必要か―古代から近代に至る芸術の思想史

Schlaraffenland

芸術作品はおもしろければそれでよいという考え方と、何かそれ以上の思想的意味が必要だという考えがあります。つまり芸術作品には哲学(真)や道徳(善)が必要だというわけです。

なぜたんに面白いだけではダメなのでしょうか。今回はこの問題を考えるために、芸術に対する思想史を社会学者ニールス・ウェルバーの論文[1]から見てみたいと思います。

何のために文芸評論は存在するのか―文芸評論の社会的機能(1/2)

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文芸評論や文芸批評というものについて、いつも謎に思うことがあります。なぜ何のために、そういうものが存在しているのかということです。というのも、小説であれアニメであれ絵画であれ、評論など全く読まなくても楽しむことができるからです。私はそんなにたくさん文芸評論というものを読まないのですが、もちろん、ここで言いたいのは、評論や批評が世の中に全く必要ないということではありません。むしろ、その必要性をもう一度考えてみたいと思います。

日本は外国人と共生できるか―進化論における社会の多様性

Unity in Diversity


最近、ますます移民受け入れの是非をめぐる議論が活発になってきたように思います。ただニュースやネットなどを見ている限り、受け入れ賛成派は、少子化や労働力不足といった経済的な観点ばかりを優先しており、社会の多様性という視点が抜けているような印象を受けます。

そこで移民受け入れの是非を考える前に、そもそも外国人と関わるということが社会的に何を意味するのか、その根本を考えてみたいと思いましたので、そこで今回は、その点についての社会学者ルドルフ・スティッヒヴェーの論考[1]を読んでみたいと思います。