リアリズムの芸術―虚構と現実のはざまで

Adolf Friedrich Erdmann von Menzel 031

19世紀半ば、芸術スタイルの主流は、ロマン主義から写実主義(リアリズム)へと変わりました。ロマン主義が好む虚構性を廃して、現実をありのままに捉えるスタイルが流行したのです。

しかし芸術がありのままの現実を捉えるなどということは可能なのでしょうか。ロマン主義にとっては、現実から離れることこそ、芸術の存在意義を確立する根拠だったわけですから、リアルを模写してしまえば再び芸術の存在意義を失ってしまうことにならないでしょうか。なぜこんなややこしいことをわざわざするのでしょうか。前回の著書[1]を読みながら考察していきたいと思います。


ロマン主義のリアル――リアルは美しくても芸術ではない

ロマン主義が支配的だった時代、リアルな美というものを芸術家たちは好みませんでした。シラーにとってリアリズムの作品とは、蝋人形や本物そっくりの造花のことを指し、それらはどれも現実の単なるコピーに甘んじているだけに過ぎません。さらに彼は「女性の美」についても考察しています。シラーは、女性という何の芸術家の手を加えることなく存在する美と、芸術を比較して、やはり芸術のほうがずっと美しいと述べています[2]

ロマン主義の芸術家にとっては、リアルな世界に存在する美というものは、芸術ではなかったのです。それに対して、リアルにも美は存在するという立場の芸術スタイルが現れてきます。それがリアリズムでした。

理想主義的リアリズム――リアルは美しいのだから芸術

リアリズム芸術の成立に決定的な影響を与えたのは、哲学者ヘーゲルでした。彼によれば、「理念」(Idee)という世界の真実を感覚的に表したものが「美」でした。リアルな現実のなかにそうした美は存在しているのですが、ただしそのままでは不完全です。そこで不完全な美をうまく完璧にすること、ヘーゲルにとってこれが芸術の役割でした[3]

ヘーゲルはこのような芸術観によって、なぜ近代芸術(ロマン主義文学)が「リアル」を喪失し、もっぱら自律的になるのかを説明しました。近代社会の現実は、もはや古代ギリシア時代のようには美しくないからです。世界の真実は分断され、あまりにも複雑化しすぎたために、ありのままの現実からいかなる美(世界の真実)を読み取ることもできません。そこで、ロマン主義のような近代芸術は、現実ではなく芸術それ自体を題材にする他なかったというわけです[4]

複雑化した近代社会においては、世界の真実を垣間見せる美などは存在しえない。したがって芸術家が存在する意義もほとんどありません。芸術はもはや終わったのです。これがヘーゲルの考えでした。

しかしその影響を受けた芸術家たちは、彼の説を見事に誤解してゆきます。近代社会も美しいのだから、芸術家はそれを表現できるというわけです。

プルンペによると、19世紀半ばのリアリズムには、近代的な生活状況がもたらす不透明さへの不満があり、そこから現実から何らかのポジティブな側面を探しだしたいという欲求に繋がったそうです。フォンターネのような作家は、採石場の鉱石を金属へと仕立て上げることをリアリズムと見なしました。作家のオットー・ルートヴィヒもまた、見通しがたく偶然に支配されたリアリティと、統一性があり透明な芸術的「現実」とのコントラストを浮き彫りにすることがリアリズムだと主張しました。[5]

しかし現実のなかから普遍的な真実を含んだ美を見つけだし作品化するという方法は、あまりにも痛々しい結果をもたらすことになりました。グスタフ・フライタークの小説『借りと貸し』がそれでした。この小説は、ドイツの中産階級が道徳的で健全だと賛美し、美しくないもの、気に入らないものすべてを「非ドイツ的」な敵の陰謀だと位置づけました。高利貸しのユダヤ人は資本主義の負の側面として描かれ、ポーランド人は大酒飲みで革命家を気取ったテロリストだとバカにされました。それに対してプロイセンの騎兵隊は奴らをやっつけるのです[6]。おそらくこの作品は、ドイツ・リアリズムの黒歴史といってもよいものかもしれません。

この痛々しい失敗から、19世紀後半、もし現実の美を作品で描くなら、それは普遍的な真実や道徳を含んだ美ではなく、マージナルで誰もがそれを美しいなどとは思ってもみなかった美が描かれるようになっていきます。その代表は、近代社会から放置された「田舎」や、普遍化できない(marginal)個人的な幸福などでした[7]

理想主義的リアリズムに近い現代日本の作品をあげるとすれば、映画『ALWAYS 三丁目の夕日』かもしれません。昭和30年代の現実を美化したこの作品は、あまりにも現実と違っているのではという批判も起こりました[8]。もしその内容が、当時の誰もが感じていた現実としてではなく、当時誰も気づいていなかった、一部の変わった人たちの現実として描かれていたのなら、このような批判は起こらなかったことでしょう。結局のところ、理想主義的リアリズムが美化できる現実とは、道端の雑草といったような局所的なものに限られるのであり、みんなに共感されるような道徳的な美を追求しようとした途端、痛々しくなる運命にあるかもしれません。

自然主義――リアルは美しくなくても芸術

19世紀後半、上記のような理想主義的リアリズムに対抗して、「自然主義」というスタイルが生まれました。それはまるで写真のような正確さで、芸術性や空想性を限りなく排除して描くスタイルでした。自然主義にとって「現実」は、自然法則によって導かれたものであり、それ自体で美しくも醜くもない。こうして自然主義者は、理想主義的との違いを引き立てるために、醜い現実の表現へと向かいました。

作家のアルノ・ホルツは、都市部での貧困、アル中、風俗通いの牧師、殺人といった、理想主義的リアリズムが目を背け続けてきた現実を主題としました。もちろん彼の目的は、たんにこうした醜い現実を描くことだけにあるのではありませんでした。何よりも作品のなかで作者の主観性を徹底的に排除することが彼にとってのリアリズムだったのです。作品から主観性を排除してしまえば、それは「自然(Natur)」そのものになります。もちろん芸術は、完璧な現実をコピーすることなどできず、「自然」そのものにはなれないとわかっていても、それでも芸術と自然とを可能な限り近づけることが大切だというわけです[9]

しかしこの途上において、彼はある発見をします。自然主義文学のおもしろさは、対象それ自体にあるのではなく、あくまでもその描き方にあることに気がついたのです。読者の関心は、作品のなかで描かれた現実の悲惨さにあるのではなく、まるで写真のように正確な描写それ自体のもつおもしろさにあったのです。しかもなぜそのような写真的正確さが絶賛されたのかというと、理想主義的リアリズムが決して用いることのない方法だったからです。つまり、文学的にイノベーティブで新しかったからこそ評価されたということになるのです[10]

ここにはある種のパラドックスがあります。芸術性を限りなく排除し、自然(リアル)な描写を心がけることは、決して芸術の否定にはならず、むしろ芸術性を高めるというパラドックスです。

このパラドックスを最もわかりやすく表現している具体例をあげるなら、『クローバーフィールド/HAKAISHA』という映画がよいでしょう。

ストーリーは簡単で、ある日ニューヨークにゴジラのような怪獣がやってきて、街を破壊しつくし、主人公たちが逃げ惑うという内容です。問題はその表現方法です。あくまで登場人物たちがハンディカムで撮ったものという設定が貫かれ、映画に特有の表現はことごとく排除されています。それはまるで9.11のときに素人たちが撮影した映像にそっくりに見えるのです。

このようなリアリティの徹底的な追求は、リアルな現実(9.11とはいかなるものであったか)への関心よりも、むしろ映画の撮影方法への関心を引き立てるでしょう。ハンディカムの映像には、現実には存在しないはずの怪獣が映り込んだりするわけですが、それがCGによる演出とは思えないくらいにリアルにみえるのです(怪獣などというファンタジーにそもそもリアルを求めても仕方ないことなのですが)。このリアリティこそ、芸術の虚構性をいっそう引き立てるのです。

おわりに

リアリズムの一連の傾向を見てみると、芸術家が取りうる選択肢は、「芸術(虚構)か/現実か」ではなく、「芸術的虚構か/芸術的現実か」であることがはっきりとわかるでしょう。

プルンペ自身は、リアリズムのスタイルは、芸術外部にある現実を芸術に取り込むことにあるのであって、現実それ自体を表現しているわけではないことを主張しています。

しかしなぜこんなややこしいことをわざわざやったのでしょうか。19世紀フランスでは、例えばバルザックに代表されるように、フランスでのリアリズムは(ドイツよりもずっと)人気でした。「大衆」と呼ばれる読者、芸術にそれほど興味がない人たちにも関心を引き立てることができたのです。日本でも「私小説」と呼ばれる自然主義的スタイルの作品は、私小説=文学と同一視するほどに根強い人気がありました。

芸術性(または虚構性)をより全面に出したスタイル、例えば抽象画などは、その分野に精通していない人にとってかなり苦痛です。あるいはエヴァンゲリオンのような作品は、うちのおばあちゃんが見ても全く理解できないでしょう。趣味が合わないとかいうレベルではなく、そもそも何が起こっているのかさえ認識できないと思います。

あるいは女性の化粧についても同様です。おそらくアイシャドーや口紅の色を濃くすると男性ウケが悪くなる傾向があるのではないでしょうか。あるいは女性芸能人がすっぴんを公開したり、整形したことが明らかになるたびに、「騙された!」という反応が起こります。なるべく「ありのままの美しさ」を演出しないと、とたんに大多数の人には支持されなくなることでしょう[11]

こうしたリアリズムの芸術スタイルに鬱屈してくる人たちが出てくるのは当然のことです。そもそもなぜそんなに大衆受けしなければならないのか、芸術に興味ない鑑賞者のことなど放っておけというわけです。19世紀末のフランスでは、リアリズムに対する批判が噴出し、ドイツ・ロマン主義よりもずっと戦闘的に虚構性が追求されるようになっていきます。これが例の「耽美主義(Ästhetizismus)」です。

この点については次回に取り上げていきたいと思います。


  1. Plumpe, Gerhard, 1995, Epochen moderner Literatur: ein systemtheoretische Entwurf, Wiesbaden: Springer.
  2. 前掲p.108-109
  3. 前掲p.126-127.
  4. 前掲p.129.
  5. 前掲p.130.
  6. 前掲p.129.
  7. 前掲p.130.
  8. 日刊SPA!, 2012/2/20, 「昭和は本当に良い時代だったのか?【環境問題編】」, 2016/11/20取得.
  9. 前掲p.132-133.
  10. 前掲p.136.
  11. とはいえ本当に「ありのまま」だと「美しくない!」と批判されるでしょうから、何とも気の毒なものです。女性は「現実」を「芸術的な現実」へと変換するリアリズム・スタイルの芸術家でなければならないというわけです。私は男性ですが、もしこんなことを強要されたら発狂せざるを得ません。この意味で、フェミニズムの批判というのは最もなことです。
on December 06, 2016 by Koutaro Yumiki | 1 comment 

1 comment:

  1. ロシア革命を勉強していて、プレハーノフの本を読んでいて...、いろいろ経由して...たどり着きました。とても整理できました!

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