何のために文芸評論は存在するのか―文芸評論の社会的機能(1/2)

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文芸評論や文芸批評というものについて、いつも謎に思うことがあります。なぜ何のために、そういうものが存在しているのかということです。というのも、小説であれアニメであれ絵画であれ、評論など全く読まなくても楽しむことができるからです。私はそんなにたくさん文芸評論というものを読まないのですが、もちろん、ここで言いたいのは、評論や批評が世の中に全く必要ないということではありません。むしろ、その必要性をもう一度考えてみたいと思います。

日本は外国人と共生できるか―進化論における社会の多様性

Unity in Diversity


最近、ますます移民受け入れの是非をめぐる議論が活発になってきたように思います。ただニュースやネットなどを見ている限り、受け入れ賛成派は、少子化や労働力不足といった経済的な観点ばかりを優先しており、社会の多様性という視点が抜けているような印象を受けます。

そこで移民受け入れの是非を考える前に、そもそも外国人と関わるということが社会的に何を意味するのか、その根本を考えてみたいと思いましたので、そこで今回は、その点についての社会学者ルドルフ・スティッヒヴェーの論考[1]を読んでみたいと思います。

なぜデモは必要か―進化論におけるデモの社会的機能

Bundesarchiv Bild 183-1989-1106-405, Plauen, Demonstration vor dem Rathaus

東日本大震災以降、日本では抗議デモが多く目立つようになってきました。脱原発、秘密保護法反対、憲法改正反対などのデモが記憶に残っていると思います。しかし、ざっとネットを見てみる限り、こうしたデモを肯定的に捉える意見よりも、否定的に捉える有識者の方が圧倒的に多かった印象があります。

しかしデモというものは、日本では珍しい感じがしますが、世界中あらゆる地域で日常的に行われています。だとしたら、デモには何らかの社会的役割があるのでしょうか。それとも感情に支配された群衆のバカ騒ぎなのでしょうか。私は今回、この問題について社会学の進化論的な立場から問題を取り上げてみたいと思います。

不安のパラドックス―不安は解消しようとするほど高まる?

不安を生みだす状況はどんどん減っているはずなのに、不安を感じる人はどんどん増えているということがないでしょうか。そのよい例は、治安についてです。統計的に見ると、現在の日本社会は昔と比べても、あるいは世界と比較しても、極めて治安がよい社会であるにも関わらず体感治安、つまり自分が犯罪被害にあうのではないかという不安はますます高まっているのです。どうしてこういうことが起こるのでしょうか。

The Scream