日本は外国人と共生できるか―進化論における社会の多様性

Unity in Diversity


最近、ますます移民受け入れの是非をめぐる議論が活発になってきたように思います。ただニュースやネットなどを見ている限り、受け入れ賛成派は、少子化や労働力不足といった経済的な観点ばかりを優先しており、社会の多様性という視点が抜けているような印象を受けます。

そこで移民受け入れの是非を考える前に、そもそも外国人と関わるということが社会的に何を意味するのか、その根本を考えてみたいと思いましたので、そこで今回は、その点についての社会学者ルドルフ・スティッヒヴェーの論考[1]を読んでみたいと思います。

進化とは多様性の認識

今回のテーマは、ドイツ語の「Fremde(フレムデ)」についてです。英語のストレンジャーに該当する言葉ですが、意味としては「外国人、よそ者、他人、見知らぬ人、なじみのない人」という感じで、とにかく距離が遠くて、異質に感じられる人というニュアンスですね。「外国人」のみならず、異質な人間すべてを含む言葉です。

したがって、この論考も外国人だけでなく異質な人間全般をどう受け容れるのかという観点から分析しています。前回の記事(なぜデモは必要か―進化論におけるデモの社会的機能)では、デモをめぐる問題の本質は、異質な人間をどう認めるのかの問題に行き着くということについてお話しました。外国人受け容れの問題も基本的には同じ構図です。

前回取り上げた論文では、社会が進化するためにはデモが必要であるという認識がありました。今回の論考でもそれと同様に、人類の歴史とは、異質な人間(Fremde)との交流をますます深める歴史であり、社会の進化とは多様性の認識にあることを前提にしています[2]

原始時代や古代社会では、ほとんどの人々が家族か、せいぜい近所の人たちとしか関わりを持たずに生活してきました。それに比べて現在では、国境が重要ではなくなるほど人々の移動は増え続け、直接目に見えない様々な人たちとも関わりを持たなければ生きていけない時代になっています。インターネットも、社会的な多様性を認識するための技術であると言えるでしょう。

異質な人間(Fremde)の社会史

まずは人類全体が、長い歴史のなかでそもそもよそ者とどのように関わってきたのかについて、この論考はいくつかのカテゴリーに分けながら考察しています。

神としての異質な人間

何万年も前に、人々はアフリカから様々な地域への移動を開始しましたが、しかし生活の大半は家族や部族などの身近な他者だけで完結しており、外人との関わりはほとんどありませんでした。このような社会においては、外部の世界を想像・認識することができませんので、そもそも異質な人間は、異質な人間であるとは認識されず、よそ者は先祖や精霊、神々だと考えられました。

しかし、このような社会は、外部の人間に攻撃されるリスクを強めます。16世紀になっても外部との接触をほとんど持たなかった南中米地域の人々は、スペインから来たコンキスタドールに当初極めて好意的だったために、彼らに侵略の意図があることに気づきませんでした。その結果、インカやアステカの社会はとてつもない悲劇を迎えることになりました。

奴隷としての異質な人間

それに対して、外部の人間を外部の人間として認識できるようになってくると、反応は二つに別れてきます。

ひとつは、よそ者に対して激しい敵意を向け、追放または殺害するという反応です。

もうひとつは、よそ者でも異質な感じを人前で見せず、自分たちの文化をすべて肯定し、自分たちに適応(Inkorporation, Adaptation)するのなら受け容れてもよいという反応です。完全な同化の要求し、異質性は認めないのがその特徴です。具体的に言うと、異質な人間は「奴隷」としてなら受け容れられたのです[3]

客としての異質な人間

たとえよそ者であっても好意的に迎えられ、異質性が容認されることもあります。客人としての異質な人間です。ただし、好意は滞在期間が限られている場合だけであり、もしよそ者がコミュニティの資源に勝手に触れたり、コミュニティに定住しようものなら、すぐに排除の対象になります[4]

特権者としての異質な人間

部族ごとに分断された社会から、身分秩序が形成された階層社会になると、上記に挙げた方法に加えて、よそ者にはさらなる特権が与えられるようになります。自分たちの社会の階層秩序では埋め合わせることのできない隙間に、よそ者を登用し、特権を与えて保護までするようになります。その典型は、商人学者でした[5]。さらには宮廷芸術家も含まれるでしょう。芸術家たちは芸術を披露するだけでなく、政治批判も期待されました。なぜなら階層秩序が形成されていると、王より低い身分の人間は誰も王を批判できません。そこで、どの身分にも属さない芸術家が必要とされるようになるのです。

このような特権者たちは、宮廷には好意的に迎えられる一方で、身分の低い人間から嫌われたことは容易に想像がつきます。実際、ここで言われている商人のほとんどはユダヤ人でした。また宮廷芸術家たちは、現地のギルドには所属していなかったので、彼らとの対立はしょっちゅう起こりました。彼らのような存在は、多くの人にとっては、身分をわきまえずに調子に乗っているようにしか見えなかったでしょう。

中世の階層社会は、奴隷と客人と特権者という3種類のタイプを組み合わせながら、よそ者や異質な人間を社会のなかに組み込んでいきました[6]

社会の近代化:異質な人間がいなくなる/誰もが異質な人間

社会が近代化すると、生まれながらの身分それ自体が誰にとっても重要ではなくなります。いまや社会を代表するのは、上流階級ではなく、政治、経済、法律、学問等、それぞれの社会領域における専門化たちです(この変化は、階層分化から機能分化への移行と呼ばれています)。

この段階になると、いままでの階層身分は、「国民」という極めて一般的・抽象的な身分へと統合され、国民であれば誰でも、学校、病院、社会保障などの社会的なサービスを受けられるようになります。

しかし専門化・機能分化が進んだ社会では、「国民」というカテゴリーそのものも重要ではなくな
っていきます[7]。例えば学問に関してですが、一方では「国民」であれば誰でも受けられるようになります。しかし他方では学問自体は、研究者の国籍を全く問題にしません。アインシュタインが何人であるかということは、彼の学説が正しいかどうかという問題と全く関係ないのです。

こうして近代化が進むにつれ、その人間が異質であるかどうかはどんどん問題にならなくなっていきます。そのことが最も日常的に経験できるのは、都市であるとスティッヒヴェーは指摘しています。都市では日常的に、身内/よそ者の線引が難しくなるほど、人間関係は希薄になります。

都市では、社会学者のジンメルやゴフマンが主張したように、無関心(Indifferenz, Unaufmerksamkeit, civil inattention)が必須の身体技法となります。電車のなかで知らない人をまじまじと見つめるのは好ましくないとされます。公共の場ではみんながみんなお互いに関心を持たない素振りをすることで、見知らぬ人に対してそれとなくうまくやっていかなければなりません。

そしていまやよそ者を自分たちの社会に統合しようという気そのものが、都市では起こらなくなってくるのです。経済学者のスミスのように、最小限の共感(Minimalsympathie)だけあれば充分であり、異質な人間と何もかも共感する必要はないという意見を持った人間が表れます。むしろ異質性そのものを楽しむような人々も表れてくるのです[8]

都市ではもはや「異質な人間(Fremde)」というカテゴリーそのものが意味をなさなくなり、すべての人がよそ者なのか、誰もよそ者ではないのか、その区別はほとんどできなくなるのです[9]。これが異質な人間や社会の多様性に向かって進化し続けるという発想から見た、人間社会の歴史です。

おわりに:移民受け入れは、異質な人間を受け容れること

このような彼の構図は、日本社会にあてはまるでしょうか。

日本社会では、このような見方が必ずしも該当していないことがわかります。確かに例えば東京ではかつて沖縄や東北の人に対する差別意識が東京では根強くあったそうです。しかし今ではほとんどの人は、そうした出身地差別はくだらないものだと感じるでしょう。この意味で東京は多様性を受け容れ続けてきたといえます。

しかし他方では移民を考慮にいれると、日本社会はまだほとんど外部からの人間を受けれいていません。先進国とされている国々では移民の割合は10%を越えます。しかし日本はいまだに1%程度です。

このことはたんに数字的な問題だけに関わりません。ある社会学者は、「日本にはそもそも『外国人』はいらない」と主張しています[10]。彼が問題にしているのは、日本人が外国人に敵対的か友好的かではなく、そもそも「外国人」というカテゴリーで他者を見ることなのです。たとえ友好的であっても「外国人」として見ている限り、不可避的に「日本人/外国人」という区別を強化してしまうのです。

こうしたことは何を意味するのでしょうか。私たちはまだ近代ではなく中世の社会を生きているのでしょうか。

一方では外国人観光客に「おもてなし」をして極めて好意的に接しているかもしれませんが、他方では長期に滞在したい外国人をほとんど受け容れてはいません。このことはスティッヒヴェーの議論から言えば、異質な人間を客人扱いする中世に特有の反応です。また恥ずかしながら、国際社会から奴隷制度として批判され続けている外国人研修制度が、現在もなお残り続けています[11]

もちろん、次のように開き直ってみることもできます。日本は日本人のための社会なのだから外国人を受け容れる必要はないのだ、と。しかし、異質なのは、外国人だけではありません。女性、若者、障害者、性的マイノリティ、老人、こうした人たちを私たちはちゃんと受け容れてきたのでしょうか。これらのすべての異質な人間を「日本人でない」として排除するなら、結局は日本人として残る人は1人もいなくなるでしょう。


  1. Stichweh, Rudolf, 2016, Gibt es Fremde der Weltgesellschaft? Zur Theorie soziokultureller Diversität, Beitrag für das Symposium “Europa Neu Denken. Michael Fischer Symposium 2016”, 7 - 9. Oktober 2016.
  2. 前回と同様、今回の論考も進化論(社会システム理論)を採用しています。そう、あのダーウィンが提唱した進化論です。ただし20世紀に大流行した社会進化論とは異なり、進化は強者(優秀な人種)が常に勝ち続けること起こるのではなく、それとは真逆に社会が多様化することで起こるというものです。おそらく現在の社会学や社会科学でマジメに「進化論」を採用している人はほぼこの観点に立っているはずです。
  3. 前掲p.3
  4. 前掲p.3-4
  5. 前掲p.4
  6. 前掲p.4
  7. 前掲p.4-5
  8. 前掲p.5
  9. 前掲p.5
  10. にしゃんた, 2015/6/28, 「日本に「外国人」いらない。」, 2016/10/15取得
  11. Bloomberg, 2016/2/23,「低賃金に逃げ出す技能実習生、『強制労働』と米報告書-爆買い無縁」, 2016/10/15取得

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