何のために文芸評論は存在するのか―文芸評論の社会的機能(1/2)

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文芸評論や文芸批評というものについて、いつも謎に思うことがあります。なぜ何のために、そういうものが存在しているのかということです。というのも、小説であれアニメであれ絵画であれ、評論など全く読まなくても楽しむことができるからです。私はそんなにたくさん文芸評論というものを読まないのですが、もちろん、ここで言いたいのは、評論や批評が世の中に全く必要ないということではありません。むしろ、その必要性をもう一度考えてみたいと思います。

芸術ジャーナルとしての文芸評論

まず文芸評論で思いつくのは、作品紹介という役割です。映画は好きなのだが何を見ていいかわからないというような、中途半端な趣味しか持たない私のような人間にとっては、評論はたいへんありがたいものです。売上がよくて話題になっている作品を見に行くだけでもいいのですが、売れてなくてもおもしろい作品も手っ取り早く知りたいと思うとき、評論家のフィルターが役に立つのです。

作品紹介としての文芸評論は、マスメディアの役割を果たしていると思います。マスメディアは、膨大な情報のなかで必要性・重要性の高いものをピックアップして「知らせる」(Information)機能を果たしているからです。したがって、文芸評論とは、ある一定の選別基準を持った芸術ニュース、あるいは芸術ジャーナルということになります。よくテレビのワイドショーや情報番組に出てくる映画コメンテーターのような人たちがそうでしょう。

しかし、本当にこれだけで説明がつくのかというと、そうでもありません。むしろジャーナリストとは同一視できない評論家もいることでしょう。

学問としての文芸評論(文学研究)

もうひとつ考えられるのは、学問、とくに文学史や芸術史としての文芸評論です。時代や作家の社会背景ごとに作品のスタイルや傾向がどのように変わるのかということを調査・分析したり、百年や千年のスパンで見たときの膨大な情報をうまく凝縮したりするといった、学術的な役割をもった文芸評論というものもあるでしょう。

一見すると、芸術ジャーナルと変わりないように見えるのですが、その最大の違いは方法論にあるでしょう。芸術ジャーナルと違って、最新のものを素早く紹介する必要はありませんし、また情報の選択基準は、ジャーナリスト個人のものであってはならず、専門的な方法論に基づかなければなりません(作品論、作家論など)。言い換えれば、情報の更新速度が遅くなりがちで、情報選択の多様性に欠けますが、客観性や信頼性はあがります。

しかし芸能ニュースでもなければ、文学史でもない文芸評論というものも存在するでしょう。

芸術活動としての文芸評論

学問の場合、どんな研究がよいのかその質を判断する基準や方法は、学者自身が作ります。この意味での学問の評論というものがあります。それと同様に、芸術家の場合にも、芸術家自身が、芸術についての評価基準を作るために批評を行うことがあるでしょう。評論は、芸術の自己反省という役割を持つことがあります。例えば、村上隆さんのような芸術家が、評論を書いた場合などは、それを芸術活動とみなしてよいでしょう。あるいはアニメの監督たちが、何がよいアニメかを語り合うこともあります。

あるいは評論それ自体が芸術作品だという人もいます。コラージュという技法は、直接作品を生みだすわけではないけれど、既存の作品を様々なかたちでコピー&ペーストしていくことで、ひとつの作品をつくりあげます。これと同様に、評論も、既存の作品を編集することでひとつの作品となるのです。

芸術の自己反省としての評論、あるいは芸術作品としての評論、こういった見方は決して間違いではありませんが、ただしこれが成立するのは評論の作り手が芸術家であることを自称している場合に限られるでしょう。

おわりに

芸術ジャーナル、文学研究、芸術活動、だいたいこれら3つの評論がありうることがパッと思いつきました。ただこれらのうちどれにも属さいない評論もあります。

とくに「言論」や「思想」に結びついたような文芸評論で、ジャーナリストでもなければ学者でもなく、また芸術家でもない、「思想家」とか「言論人」としか言えないような人たちによって書かれたものです。

次回、思想系文芸評論というものについて考えてみたいと思います。

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