思想としての文芸評論―文芸評論の社会的機能(2/2)

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今回は、さまざまなタイプの文芸評論のなかで、特に「思想」と深く結びついた文芸評論について考えてみたいと思います。

思想と哲学の違い

「思想」というものは一見すると学問であるように見えますが、厳密に言うと違ったものです。例えばジャック・デリダやミシェル・フーコーといった学者の研究はしばしば「現代思想」にカテゴライズされますが、これは英語を直訳すると「現代哲学(contemporary philosophy)」であって、「思想」ではありません。ではどのように異なるのでしょうか。

次のサイトが、西洋哲学と東洋哲学(思想)の違いについて図表でわかりやすく指摘しているので、そちらを参照するとよいかもしれません。

思想・哲学・宗教の違いがよくわかる図表で、サクッと3分野の特徴を整理してみる

哲学(というか学問全般)は、厳密な論証や、情報取得選択のためのかなり面倒な手続きを必要とし、あくまでもある情報を「真/偽」のいずれかに分けることだけに専念します。

それに対して、思想には、「真/偽」の判定だけでなく、「生き方」や「善/悪」などの宗教的・道徳的要素が加わります。思想においては、いくら真実であっても善でなければ説得力はありませんし、いくら善であっても真でなければ説得力がありません。

したがって、非常にわかりづらい言い方になりますが、思想は「真/偽」を問題にするという点では確かに学問的ですが、真理以外の要素(たとえば善/悪)も問題にするという意味では厳密には学問ではないのです。学問と道徳の未分化状況こそが思想ということになります[1]

思想としての文芸評論

以上のように「思想」を捉えた上で、思想に極めて強く結びついた文芸評論というものについて考えてみたいと思います。この立場をもっともわかりやすく表現しているのは、評論家の宇野常寛さんの見解でしょう。彼は次のように述べています。

「物語」について考えることで私たちは世界の変化とそのしくみについて考えることができるし、逆に世界のしくみとその変化を考えることで、物語たちの魅力を徹底的に引き出すことができる――。あるいは、そこからこの時代をどう生き、死ぬのかを考えるための手がかりを得ることも可能だろう。物語と世界を結ぶ思考の往復運動が私たちに与えるものの大きさは計り知れないのだ。[2]

上記によると、作品を理解することは、そのまま「世界のしくみ」を理解することに直結するのであり、そのことがさらに「どう生き、死ぬのか」という人生のヒントを導きだすことまで可能です。ここでは、作品(美)と世界のしくみ(真)と生き方(善)が相互に密接に連関していて、容易に分けることはできないものとなっています。

しかしこうした見解とは真逆に、そもそもこうした三位一体などありえないという意見の人もいます。最も有名なのは哲学者カントでしょう。

人間のこころの能力はすべて、例外なく3つの能力に還元することができる。認識能力、快/不快の感情、欲求能力の3つである。考え方が徹底しているゆえに賞賛に値する哲学者たちが、これらの違いなど単なる見せかけに過ぎないと宣言し、これらの能力をすべてたんなる認識能力に還元しようとしてきたのは確かである。しかしこういったことが無駄であること、別様に言えば、純粋な哲学的精神において企てられる、こころの能力の多様性を統一化しようという試みが無駄であることは、容易に証明することができるし、少し前からみんなが気づいていたことである。[3]

彼は18世紀末(あるいは19世紀初頭)の著書『判断力批判』において、当時の哲学者が、認識能力(真、学問)、快/不快の感情(美、芸術)、欲求能力(善、道徳)のすべてを認識能力のうちに統合できると考えたことに反対しました。真・善・美はともに全く違うジャンルに属するものなので、それを統一することなど不可能だと主張したのです。

世界全体を直接観察することなどできず、せいぜいそれは学問や芸術、道徳といったフィルターごしに垣間見えるだけです。しかもそのフィルターごとに世界観は全く違って見えてしまうので、そもそもこの三者は原理的に統合不可能なのです。

このことはゲーテやシラーと言った芸術家たちに絶大な影響を与えました。彼らにとっては真・善・美の三権分立は、芸術を道徳や学問の重荷から解放してくれるものだったのです。またこの見解は、バンジャマン・コンスタンやスタール夫人などのフランス人にも伝わり、やがて19世紀後半のフランスにおける「芸術のための芸術(l’art pour l’art)」という考え、あるいは今日の近代芸術の基礎となるものでした。

せっかくの芸術作品にあれこれと思想的意味を付け足して解説するのはバカらしい、見たものを見たように楽しめればそれでいいのだという人がいます。こういう人は芸術の価値を知らないバカな鑑賞者なのではなく、近代芸術のセンスを持った人です。

しかしそれにも関わらず、実際に思想的文芸評論がいまだに存在しているのなら、そこにはどのような社会的機能があるかを考えなければならないでしょう。

おわりに:思想系文芸評論は何を目指しているのか

ひとつ考えられる解釈としては、思想は学問よりもずっと柔軟に思考し、幕の内弁当のように読者の様々な関心に答えることができるということが考えられます。文芸評論は、芸術に関心を持った読者に、芸術のみならず学問や宗教(道徳、あるいは生き方)への関心も与えてくれるきっかけを作るかもしれません。自分の生き方に悩む人が思想系文芸評論を読めば、学問や芸術に触れることの大切さを知るかもしれません。それに対して学者という存在は、狭い専門社会の掟にしばられ、奥歯に物が挟まったような言い方しかできないものですし、自身の論文で読者に受けのよい文学的な表現を使うのを嫌ったり、読者の道徳的関心を無視してしまうものです。

とはいえ、異なる領域を容易に飛び越えてしまうことにはリスクもあります。歴史的にみると、真・善・美の境界線を容易に飛び越えられると考える人ほど、全体主義を支持する傾向が強いという側面があります。典型的なのはドイツ・ロマン主義です。しかし日本でも1920年代、例えば菊池寛のような作家は、「生活第一、芸術第二」として道徳的・思想的価値に関心をもつ必要性を主張しました。彼らが直接全体主義化を促進したわけではありませんが、ナチスや東ドイツ政府が道徳的に価値のない作品は芸術的にも価値がないと判断することの正当性を与えた側面があることも否定できません。

ですので、思想系評論というものにどのような長所と短所があるのかということについて、注意を払う必要があるでしょう。


  1. 上記のサイトは、学問だけに専念する哲学と、学問と宗教にある思想との違いを、西洋哲学と東洋哲学の違いから説明しています。しかし西洋の哲学も、遅くとも18世紀末にカントが出てくるまでのあいだ、学問から宗教を切り離すことはできないでいました。したがって、哲学(西洋)/思想(東洋)という区別は、必ずしも正確ではありません。もちろん、実際にはこの区別でほぼ説明できているので間違いではありませんが。
  2. 宇野常寛, 2008,『ゼロ年代の想像力』, 早川書房.
  3. Kant, Immanuel, 1977, Einleitung in die Kritik der Urteilskraft, In: Werke in zwölf Bänden. Band 10, http://www.zeno.org/nid/20009190201.

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