ポピュリズムの否定は、ポピュリズムの肯定と同じくらい危険

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Landsgemeinde Trogen 1814


ポピュリズムと聞くと、知的で理性的な市民よりも、政治知識を持たない感情的な大衆が増大することへのネガティブな側面がたびたび強調されているように思います。

しかし本当にそうなのでしょうか。ポピュリズムを選択するということにはどんな合理性もないのでしょうか。今回はアントン・ペリンカの「ポピュリズム:概念の経歴」[1]という論文がありましたので、それを読んで見たいと思います。

直接民主主義への期待

ポピュリズムは、直接民主主義に強く志向するという共通点を持っているとペリンカは指摘しています[3]リンカーンの「人民の人民による人民のための政治」の精神を強調し、議会制に基づく間接民主主義よりも、国民投票などの直接民主主義を重要視します。

しかしペリンカによると、近代民主主義は最初から矛盾を抱えたものだと言います。一方では「国民」に権力を与えながら、他方では議会がその権力を誘導したり、相対化してしまうのです[2]

なぜこのような矛盾が生まれるのでしょうか。民主主義はいつも2つの顔を持っています。直接民主主義と間接民主主義です。直接民主主義を象徴するのは国民・住民投票でしょう。議員選出の際には、国民・住民の直接意志が投票によって反映されます。またヨーロッパでは、イギリスのEU離脱が今年決まったばかりですが、極めて重要な政治課題を直接住民の意志で決定する投票(Referendum)が行われることもあります。

それに対して間接民主主義は、住民の直接意志を可能な限り反映しないような工夫を行います。象徴は議会制民主主義です。法案を作成する際には、国民の直接意志ではなく、国民に直接選ばれた議員の意志が反映されます。国民の直接意志が、専門家のフィルターを通して選別されます。しかしこの点にこそ民主主義が機能不全に陥る原因もあります。選挙期間中は、国民に受けのよいことばかり言うくせに、いざ議員になるとすぐに民意を無視するといったことは、よく起こることではないでしょうか。間接民主主義は、議員というエリートによる寡頭政治を引き起こすリスクを孕んでいるのです。

ポピュリズムが登場するのは、一部の人が権力を独占することで、国民の大多数の民意が反映されないときです。公平ではなくなった権力に対しては、自分たちは庶民であり、多数派であり、ふつうの人々(ordinary people)なのだという「われわれ」感情が、唯一の対抗手段となるのです。

ですから、ポピュリズムとは、大多数の住民の意見が反映されるべきだという、最も純粋な民主主義への要求です。もしこのような要求を誰も持たなければ、そもそも民主主義体制それ自体が生まれていなかったでしょう。

もし間接民主主義が全く機能しなくなれば、必然的にポピュリズムは出てきます。「ポピュリズム」は悪であるという議論は、この点について配慮すべきなのではないでしょうか。仮定の話ですが、例えば不正選挙や、企業との癒着によって民意を反映する手段が全くなくなったとき、私たちはどうすればよいのでしょうか。近年の東欧や中東などを見ている限り、国会や町を取り囲む以外に方法はないように思います。それは理性的な意志表明というよりも感情的な表出であり、明らかにポピュリズムです。東欧や中東ではそうした一時の感情で政権を転覆したことで、かえって混乱を招くこともありました。しかしそれでも他に方法はなかったように思います。

ですので、単純にポピュリズムを否定しただけでは、一部のエリートだけによる寡頭政治を肯定することにつながりかねません。ポピュリズムと聞いてすぐに危険視する考えそれ自体が、民主主義社会にとってかえって危険であると言えるのです。

多数派意識の暴力――包摂の排他性

しかしもちろんこの問題にもパラドックスがあります。「われわれ」や「国民」という仲間意識は、民主主義にとって必要不可欠なものです。しかし、まさにこの意識こそが民主主義を歪めたり崩壊させるきっかけとなるのです。

ペリンカによると、ポピュリズムは「国民」の考えを拠り所としますが、その割にその国民が具体的に誰に該当するのかについてはいつも曖昧であると言います[4]。18世紀のアメリカは「国民」の概念を打ち立てて、イギリスの国王と政府による専制支配を退けることに成功しました。しかしその際、この「国民」には、アメリカ先住民、アフリカ系出身者、そして女性は含まれておらず、民主制度が確立されたあとになっても彼らはそこに参加する権利を持ちませんでした[5]

さらに旧東ドイツでも同様でした。1989年、彼らはこれまでの独裁政府に対して、「Wir sind das Volk!(我々こそ国民だ!)」というスローガンによって民主主義を要求しました。その際、もちろん当時東ドイツに移住していたベトナム系やアフリカ系のドイツ人はそこには含まれていなかったのです[6]。そして皮肉にも、現在の東ドイツでは、移民排斥を主張するペギータという団体が、街頭で「われわれは国民だ」と叫ぶようになりました。ドイツの新聞などは、この言葉を移民排斥のために使うことは誤りであると警告していますが[7]、歴史的にみると、民主主義要求と排外主義との違いは、決して明白ではないのです。

そしてもちろん、ナチスと民主主義との差も決して明白なものではありません。当時の政治学者であるカール・シュミットのように、ヴァイマールの議会制民主主義が、国民の意志を反映していないことを憂慮する知識人は決して少なくありませんでした。独裁者である総統こそ、民意を最も反映できるのではないかという極めてパラドキシカルな期待をしていたのです[8]

結局のところ、みんなを包摂せよという要求それ自体が、何らかの排他性を持ってしまうというパラドックスが頻繁に生じうるのです。そのパラドックスが最も悲劇的に生じたのがナチスだったのではないでしょうか。

おわりに

ポピュリズムの肯定が反民主主義につながる危険性がある一方で、それを否定することもまた反民主主義的状況を生みだすきっかけとなるのです。このジレンマこそが、ポピュリズムをめぐる問題の本質なのではないでしょうか。

このようなパラドックスを解決するためにはどうしたらよいのでしょうか。ペリンカは、ポピュリズムが良いか悪いかが問題なのではなく、間接民主主義の必要性が理解されないことが問題なのだと述べています[9]。どれだけ民主主義が有権者の民意を汲み取る必要があるにせよ、それは議会の専門家たちのフィルターにかけられなければならないのです。素人の判断は危険だというわけです。逆に言えば、議会が人々に信頼されているのなら、ポピュリズムがどれだけ活発になろうが問題はないということになります。

しかし、日本のような社会では、果たしてどれだけの人が議会の必要性を実感したことがあるでしょうか。国会で議論されるのはいつも形式的な話ばかりで、なかには議論の最中に寝ている人さえいます。もしかすると議員定数削減の要求は、こんな無駄な制度に金をかけるのはバカバカしいという思いから支持されているのであって、財政再建などというのは二次的な問題にすぎないかもしれません。

こうした状況から考えると、そもそも日本ではポピュリズムを促進する要因がいくらでも目につきます。国会中継を見ていると、ポピュリズムが起こらないほうが不思議に思えてなりません。いまもう一度民主主義とは何なのか、根本から考え直すときに来ているようにさえ思います。

どっちもどっち論で、ポピュリズムを正当化したいわけではありません。そうではなく、専門家たち(議員)のリアリティと、それ以外の人たちのリアリティがあまりにもかけ離れている状況が問題なのです。このギャップを埋めるためには、たんに国民に専門家を信頼せよと呼びかけただけでは意味を成さないでしょう。道州制などの地方分権によって意思決定の単位を小さくすることや、情報公開とそれをチェックする学者や市民団体が必要になるでしょうし、何よりも膨大な数の無駄な議論を少しでも積み重ねていくほかありません。



  1. Pelinka, Anton, 2012, “Populismus – zur Karriere eines Begriffs”, Sir Peter Ustinov Institut (Hg.), Populismus. Herausforderung oder Gefahr für die Demokratie?, Wien: new academic press, S.7-20.
  2. 同上12頁
  3. 同上9頁
  4. 同上11頁
  5. 同上14頁
  6. 同上14頁
  7. Vereinnahmung der Parole ‘Wir sind das Volk’: Pegida ist nicht das Volk“, In: Tagesspiegel, 2015年1月19日.
  8. Pelinka, 2012, 13頁
  9. 同上18頁

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