ドイツ語のガイストと日本語の精神―知性のない精神

RobertFuddBewusstsein17Jh

ドイツ語で精神を「Geist(ガイスト)」と言うのですが、この言葉には、相反する矛盾した意味があります。ガイストは、人間の知的な側面を表すと同時に、他方では霊的存在とか幽霊という非知性的な意味もあります。いつも疑問に思うのですが、なんでこんなに違う意味がひとつの言葉で表現されているのでしょうか。


ガイストの意味―知的なものが霊的?

「Duden」という向こうの辞書を見る限り、おおまかにまとめると意味は主に2つあります*1

  1. 思考する意識、知力・判断力・理解力(Verstandeskraft)、エスプリ、物の考え方や態度
  2. 幽霊(ゴースト)、神や悪魔などの霊的存在、妖怪

1.が意味するのは、意識、考え、思想、「知性」です。形容詞「geistlich」では、「知的な」という意味と捉えてよいでしょう。またドイツ語圏には「精神科学(Geisteswissenschaft)」という研究分野があります。人間社会の考え方や思想を対象とした領域という意味です。日本語でいう「文系」にほぼ該当していて、文化学・メディア学・政治学・社会学・歴史学などはだいたいこのカテゴリーに入ります。

それに対して2.の意味は、幽霊や妖怪または、宗教的な存在のことを指します。ガイストは英語で言うゴーストですね。まさにオカルト的な意味になるのです。もし精神科学を「幽霊科学」と訳してしまうと大変なことになってしまいます。しかし、そもそも「精神科学」という言葉自体、日本語からすると怪しい感じがするので、「文系」と訳したほうがいいのでしょう。

それにしても、知性的な意味と霊的(非・反知性的)な意味が、一つの言葉に同時に内在しているというのはなぜなのでしょうか。

霊的なものと知的なものは矛盾しない

前回、社会学者ルックマンによる宗教の分析を参照しました。

宗教とは何か―本当はみんな宗教を必要としている?(2/2)

ルックマンの宗教に対する見方は極めてラディカルなものでした。宗教において重要視される「超越」的経験(ここでは霊的な経験と言ってもいいでしょう)とは、いま目の前にある見たままの現実の背後には、目に見えないもっと崇高な「意味」があるという確信から生まれます。ルックマンによれば、この経験は、自分には直接的なつながりのない人々にも何らかの結びつきがあると理解させる作用があり、「社会」を生みだす根源的なメカニズムなのです。

さらに超越的経験は、学問が形成されるために必要な条件でもありました。学問もまた、目には直接見ることのできない抽象的な原理を扱うからです。

学問と宗教が密接に結びついているように感じる事例としては、数学の素数研究でしょう。素数とは2、3、5、7、11、13……といった1とそれ自身の数以外では割り切れない自然数のことです。これら素数をずっと並べていっても、一見しただけではそこに全く規則性がありません。しかしこの規則性のなさが、数学者たちの好奇心をかきたてました。これらの素数の背後には、実は何らかの超越的原理が存在しており、それを解明することで神の原理そのものを明らかにできると考えたのです。また、最近では「インテリジェント・デザイン」という言葉もあるそうです。これは、神とは何らかの知性的な存在であり、その存在によって世界が作られているというものです。ここまでくるとだいぶオカルトっぽいのですが、神と学問を同一視し、神を知りたくて学問を始めるという人たちが現在でもいるのです。

そうしてみると知性と霊は、決して矛盾しないどころか、霊的存在への信念そのものが高度な学問を発達させるきっかけとなることもあるわけです。そもそも中世ヨーロッパでは神学そのものが学問の中心だったのですから、このような考えはおそらく古くからあったとも言えます。

日本語では、霊的なものは知的ではない?

それに対して、日本語のいう「精神」には、あまり知性的な要素が含まれていないように思います。

日本語の「精神」でまず私が思い浮かぶのは、精神主義や精神論(根性論)という言葉です。これは、軍国主義時代に特徴的だった考え方で、自分の気の持ちようで全てが解決するという考え方です。典型的なのは、スポーツをしている時には「水を飲むな」という考えですね。ここでいう「精神」は、むしろ科学的や知性的な判断を停止させ、合理的な思考そのものを放棄している状態を指すのです。

ドイツ語では心理と精神は違う?

そもそも日本語の辞書で「精神」という言葉を引いてみると、まず最初に出てくるのは「こころ」という意味です*2。例えば「精神医学」というと、こころの病気を治療する学問ということになります。

しかし不思議なことがあります。Dudenの辞書をいくら見ても、ガイストの項目には「こころ (Herz, Seele, Gemüt)」や「心理(Psyche)」を指す言葉は見当たりません。類義語の項目を見ても、それらしい言葉がないのです。

そうだとすると「精神医学」が対象にしているのは何なのでしょうか。ドイツ語で精神医学は、Psychiatrieで、直訳すると「心療」とか「心理医学」となるものです。また人間の無意識を研究したフロイトの「精神分析学」もPsychoanalyseであり、直訳すると「心理分析」になります。精神分析学で問題にしているのは、トラウマなどの研究が有名ですが、無意識としての「心理」であって、知的な思考としての「精神」ではありません(私は精神医学も精神分析学も心理学も全く知らないので、もし精神と心理を同一視する考えがあったらすみません)。

それにしても日本語でなぜ「心理(Psyche)」が「精神」と訳されたのかはよくわかりません。これでは精神/心理の違いがどうしようもなくわかりづらくなります。こう考えてみてよいのだと思います。

精神=人間の知的な意識/心理=人間の無意識

心理や無意識は、刺激/反応やインプット/アウトプットの図式で計測できる機械的・動物的な領域です(心理学は簡単な入門書を読んだくらいなので、最新の心理学はわかりませんが)。それに対して、精神は、あくまでも自分で考え自分で決断することのできる意識を問題にしているのです。

おそらく日本語の「こころ」という言葉が、この区別をそもそもなくしてしまっているように思います。辞書を引いてみますと、
人間の理性・知識・感情・意志などの働きのもとになるもの。また、働きそのものをひっくるめていう。精神。心情。*3
とあります。この言葉のもとではやはり「理性=感情」となっており、明確に区別されていないのです。

それと日本語の「思う」は、何を思っているのか不思議に思うことがあると思います。この言葉も「think」と「feel」をほとんど区別していません。

おそらくたまたま言葉の使い方がヨーロッパ圏と異なっていたというわけではないのでしょう。その背後にある日本社会の文化や「精神」が、その区別を曖昧にさせているのかもしれません。

精神なき日本の精神

当然ながら、まずもって日本社会では、「精神(ガイスト)」などという存在がそもそも認められている場所がほとんどないのではないかと思います。

典型的なのは、学校での感想文です。ここでは、自由な意見や考えではなく、学校が指定する学生らしい文章が求められます。教育とは、社会が要請する適切な刺激/反応の仕方を身体化する場所であり、生徒とはパブロフの犬に他なりません。教育の使命は、自由な精神を形成する(個人の自律性を獲得する)場所だと知ったのは、大人になってからのことでした。

さらに日本では、現状を批判する人は、叩かれる傾向にあると感じた人も多いでしょう。そもそも社会批判は、見たものを見たままに受け入れることができないことから生じる行為であり、その意味で、現状を「超越」した何かを見ようとする精神的な活動であると言えます。しかし現状を無批判に受け入れることができないというのなら、何かその人自身に問題があるということになるのです。

そうしてみると、日本社会では、精神/心理の区別が曖昧だというよりもむしろ、精神的なものへの嫌悪する感情が文化として根付いていると言ってよいのかもしれません。

おわりに:日本では経済成長を諦めるとカルト宗教がはびこる?

私が懸念するのは、ここ最近、先進国では「脱物質主義」が盛んに叫ばれ、経済成長至上主義から距離が取られるようになってきたことです。大量生産・大量消費の物質主義社会では、人間は幸福にはなれないので、何らかの「精神」的な価値を社会的に追求する必要があるというわけです。「幸福」についての計量研究が流行しはじめ、OECDもこの概念をGDPに代わる政策目標として利用可能かどうか検討し始めています。もちろん、日本では「経済成長こそが最優先課題」とする政治が支持を集めているので、まだまだこの考えには賛同できない人も多いでしょうが、しかし日本でも遅くとも90年代には、「モノからココロへ」の移行が必要だという議論が多く出てくるようになりました。

ドイツ語のガイストと、日本語の精神では、言葉の意味が違うということを述べてきましたが、じつはどちらもそれが「物質」とは対極に位置するものである(と考えられている)点では共通しています。しかし「脱物質」が社会的に模索されるようになったとき、ドイツと日本では異なる結果を生むかもしれません。

これはあくまで想像ですが、理性的な「精神」と非理性的な「心理」が日本語ではあまり区別されていないとなると、「脱物質主義」が日本語にとって意味するのは、反知性的で、より人間の「こころ」に訴えるような集団、たとえばカルト宗教かもしれません。

すでにバブル崩壊後に「オウム真理教」が大規模なテロを起こして社会問題になりました。その際しばしばメディアで報道されたのは、この教団がヘッドギアなどを用いた「洗脳」を行っていたことです。もしその洗脳が事実なら、彼らは現代社会の知性そのものに極めて敵対的だったのは明らかです。さらに近年、若者たちのあいでマイルドヤンキーというライフスタイルが流行しているという議論も出てきました。別に彼らはオウムのように社会に対して暴力的になっているわけではありませんが、彼らの特徴は、反知性的な態度で仲間との「絆」を大事にするという点にあるようです。

別に反知性的な存在は有害なので排除せよと言いたいのではありません。また一見すると反知性的に見えるだけで、よく考えてみると、そこには何らかの論理があるということもあります。しかし、「脱物質主義」の選択が、本来の意図とは異なる結果を生む可能性があるということを留意する必要があるのではないでしょうか。


*1: http://www.duden.de/rechtschreibung/Geist_Verstand_Destillat, http://www.duden.de/rechtschreibung/Geist_Person_Spukgestaltを参照
*2: コトバンクの「精神」の項目を参照
*3: goo国語辞典の「こころ【心】」の項目を参照

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