音楽に政治を持ち込んでもよい条件―芸術の自律性のパラドックス


フジロックにSEALsの奥田愛基氏さんが出演することに対して、ツイッターで「音楽に政治を持ち込むな」という非難が起きていることが話題となっています。

ここでは音楽(芸術)と政治の関係について次の2点から考えてみたいと思います。

(a) 絶対に芸術に政治を持ち込んではならないという考えは、本当に非政治的なのか。
(b) 時には芸術に政治を持ち込んでもよいという考えは、本当に政治的なのか。


Joan Baez Bob Dylan

フジロックで彼がどのような発言や表現をしたのかよくわかりません。また私は音楽も詳しく知らないなので、ここで何か述べる資格はほとんど何もないでしょう。

私の考えは基本的に「ノー」です。が、場合によっては「イエス」です。基本的に芸術に政治を持ち込むようなことはあってはなりませんが、あるいくつかの条件においてはそれが許容されるというのが私の考えです。

芸術の自律性――芸術のための芸術

「芸術のための芸術(l'art pour l'art)」という19世紀初頭のフランスで流行したスローガンは、今日では、「芸術の自律性」として芸術活動全般に不可欠な芸術的信念となりました。この概念を高尚な芸術家だけしか理解できない難解なものであると思う必要はありません。例えばアニメ一つとってみても、作品のなかに露骨な政治的メッセージが入っているのを見ると興ざめしてしまうという人がいるでしょう。こういう人はすでに近代社会の芸術観を身に着けている人です。

それに対して近代以前の芸術というものは、ほとんどが何か芸術以外の別の要素によって作られたものでした。制作が許されたのは、ほとんどの場合、宗教的儀礼を遂行するために有益である場合のみです。だから自由なスタイルで規定のパターンから逸脱することは、例えば音をズラして歌うなどということは、死罪にさえ値するものでした(マックス・ヴェーバー『音楽の社会学』)。近代以前の作品に価値があるかどうかは別にして、このような状況を現代の芸術家たちは、受け容れることなどできなかったでしょう。

しかし近代社会においてさえ、その自律性が無条件にいつでも認められたわけではありません。20世紀には、芸術への政治的介入が露骨に行われるようになりました。共産主義や民族主義の政府は、しばしば芸術家たちを政治的に利用したのはもちろんのこと、芸術家たちのなかにも政治に協力する人が現れました。芸術の自律性という理念のもとで芸術家としての地位を獲得しておきながら、いともたやすく理念を捨てて、プロパガンダに走った人たちがいたのです。

このような歴史的経緯から戦後、政府が芸術に口を出すことにも、またその逆に芸術が政治に近づくことにも、かなり慎重でなければならないという考えが、多くの社会で生まれました。この意味で芸術の自律性は、芸術の制作者や鑑賞者にとって何よりも守らなければならない重要な価値です。

芸術の自律性というパラドックス――「芸術のための芸術」のために何をすべきか

しかし20世紀における芸術と政治の関係性をめぐる歴史は、もう一つの問題を私たちに提示しているように思われます。

次のような状況があるとしましょう。今まさに政府がある作品に墨塗りをしようとしているとき、その芸術家はどう対応するでしょうか。2パターン考えられます、墨塗りに反抗するか、それを受け容れるかです。しかしどちらの対応も矛盾に満ちています。芸術家が検閲に反抗の声を上げることはその時点で、検閲反対という政治思想を芸術に持ち込むことになります。では、芸術を政治に持ち込まないので、墨塗りを受け容れるならどうでしょうか(この態度そのものがすでに政治的にも思えますが)。これでは自律的な芸術そのものが消滅してしまいます。

では、芸術家はどちらを選ぶのが合理的でしょうか。前者の場合、まだ芸術が生き残る可能性があります(実際にはすでに時遅しでどうにもならないでしょうが)。後者の場合、検閲を受け入れたその時点で、芸術の自律性は死にます。したがって、芸術家にとって反抗の道を選択するほうが合理的でしょう。

つまり「芸術のための芸術」のために政治から離れることで、結果として「芸術のための芸術」が守れなくなるということがあるのです。だから多くの芸術家たちが、これまで民主主義や言論・表現の自由という政治的信念を公然と支持してきたのは不思議ではありません。

「平和」や「反戦」といった政治理念はどうでしょうか。戦時の非常事態は、芸術の存在そのものを殺します。戦時下にあっては、「ぜいたくは敵」だからです。たとえ検閲がなくても、切迫した状況では芸術を楽しむ余裕などありません。それゆえ芸術家たちが、これらの反戦を主張するということは(確かに極めてパラドキシカルですが)、芸術の自律性という価値と少しも矛盾していないのです。戦争という政治問題によって芸術活動が妨げられないために政治的な表明しているだけのことです。これらの政治的主張をもって、芸術家が政治のために芸術を利用していると解釈するのは間違いで、むしろ芸術家が芸術のために政治を利用しているのだと理解することが大切でしょう。

その点で、アジアン・カンフー・ジェネレーションの後藤正文さんが、音楽に政治を持ち込んでいるという批判に対して、「『読経に宗教性を持ち込まないでください』みたいな言説だよね」と反論したことは何の矛盾でもありません。

また彼が政治的発言をすると、底が浅いという批判が起こりますが、これにも慎重な解釈が必要です。

アジカン・後藤の「クソ安倍」発言が再び話題に 政治的言動には「底が浅い」との声も

確かに発言だけ見ると底が浅いというのも一方では理解できます。政治を変えられるのは政治だけであり、そのためには政治の細かいプロセスや議論が不可欠なのですが、芸術家というのはしばしば政治に対する勉強が不足しています。しかし勉強が不足していることは、落ち度でも何でもなく、彼が純粋な芸術家であったということに他なりません。彼の意見に賛同した政治の専門家が(政治家であっても市民であっても構いません)、芸術家たちの意を汲んで、政治を変えればよいのです。

おわりに

なんだかあべこべな話になってしまいましたが、こういうことです。芸術の自律性を守るために、芸術家が政治的発言をするということは、何の矛盾でもないということです。むしろ芸術の自律性を尊重して、政治的発言を避けることが、ときには芸術に政治を持ち込むという結果を引き起こすことがありうるとも言えるでしょう。

もちろん程度の問題はあります。芸術家が政治的発言をすることに警戒する考えも理解できます。戦争や民主主義についての意見ならいいが、原発問題はどうなのかとか、あるいは自由といったような抽象的な理念なら良くても、具体的な政党の話をするのは危ないといった考えもあるでしょう。しかしいずれの場合にも、「芸術のための芸術」のために何をすべきかを考えているのなら、これらの意見の違いは些細なものに過ぎません。

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