社会的ジレンマ―社会問題を起こすのは誰か

a dilemma

社会問題が起きるのは、バカな人間がいるためだと考えられがちです。

しかし本当にそうと考えてよいのでしょうか。

社会的ジレンマという考え方は、社会問題を起こすのは、バカではなく、合理的な人間であることを想定します。

今回は、この発想からどのように社会問題が起こるのか考えてみたいと思います。


社会的ジレンマとは

もちろん私は社会的ジレンマという概念をよく知らないので、まずは教科書の定義を簡単に目を通すことにします。
アダム・スミスの『諸国民の富』では、個人の利己心は、みんなのしあわせ(das allgemeine Wohl)を向上させる。個人の合理的行為と集合的な幸福は、市場の「見えざる手」によって調和する。社会的ジレンマというのは、これとはまさに逆で、個人の利害と集合的な結果のあいだの調和を壊してしまうのである。それぞれの行為者たちは、自らの目的を合理的に追求するが、全体としては次善の結果しか得られないのである。……素朴な社会分析が間違っているのは、非理性的な結果は、非理性的な行為のせいで起こるというものである。実際はたいてい逆である。非理性的な結果とは、しばしば個人の合理的行為の結果なのである。*1
個人が合理的に行為すればみんなが幸せになるとアダム・スミスの考えとは逆で、個人が合理的に行為をすると、非理性的な社会的結果(つまり社会問題)が生じることがあるというのが社会的ジレンマの考えです。

この考えは、世の中にはバカがたくさんいることなど少しも想定していなくて、すべての人間がすべての与えられた状況に対してたんに合理的に振舞っているだけなのです。にも関わらず、社会全体に非合理的な結果が生じることがあるのです。

社会的ジレンマの事例として、ここでは乱獲をあげてみます。いま世界中で魚が人気になっているのを背景に、魚の数がどんどん減っていることが問題になっています。これを引き起こすのは、バカな人間なのでしょうか。

そうではありません。漁師にとって、10匹捕るよりも1000匹あるいは1万匹捕るほうが、収入は上がるということは紛れもない事実です。私たちはこの漁師を欲深い人間だと責めることもできます。しかしおそらく事態はもっと複雑なはずです。捕れば捕るほど儲かる状況は、過剰な供給をもたらしがちなので、魚一匹の値段をますます下げることになるでしょう。魚の値段が下がるなら、漁師さんはたとえ乱獲を望んでいなくても、ますますたくさんの漁を行わなければなりません。

消費者にも視点を移してみましょう。私たちの多くは、高級寿司よりも1皿100円の回転寿司を好みます。回転寿司の魚は、たしかに質は落ちるかもしれませんが、圧倒的にコストパフォーマンスが高いのです。もちろん、安さに釣られた欲深い消費者だと非難することもできるでしょう。しかし事態はもっと深刻です。私一人が回転寿司を控えたところで、世の中から回転寿司が消えてなくなることはありません。そうしてみると、乱獲の問題に固執して回転寿司を控えることは、市場での利益を放棄することに他なりません。そちらのほうがよっぽど非合理的ではないでしょうか。

しかしまた次のことも事実です。漁師や消費者のおかれた状況を放置して乱獲し続けるなら、最終的には魚そのものが食べられなくなります。誰もが困る事態が生じるのです。

社会的ジレンマの解決策

ではどのようにしたら、このジレンマを解決できるでしょうか。この本には、一回限りの状況では、社会的ジレンマは解決できないが、それが繰り返されるのなら、人々は合理的に計算して、解決解消に向かうそうです。

ここでこの本が想定しているのは、ニューヨークで殺人事件が起こり、沢山の人がそれに気づいていたにも関わらず、誰も警察に通報しなかったという事例です(キティ・ジェノヴィーズ事件)。どうせ誰か他人が通報してくれるに違いないので、わざわざ自分がコストを払ってまで通報する必要はないと誰もが考えた結果、殺人事件が放置されることになったのです。わざわざ自分が通報する必要はないと個人が合理的な行為を行った結果、ナイフで刺されたのに誰も助けてくれないという、誰にとっても困る非合理な事態が生じたのです。しかし、我々はこのような状況は往々にして起こるものなのだと学習すれば、たとえ誰かが通報したに違いないと思ったとしても、今度は自分も通報してみようと思うものです。それと同様に、魚が絶滅するとわかりきっているのなら、乱獲はやめるようになるだろうというのが彼の見解です。

しかし私はこの見解には納得いきません。一回限りの状況だからこそ、自分のコストは少なく済むと踏んで、全体的利益のために行動するが、連続した状況であれば、コストは払いたくないという状況があるのではないでしょうか。例えば、今年一年回転寿司を我慢するだけで乱獲問題が解決されるのなら、多くの消費者は回転寿司を控えるでしょう。しかし、解決のために10年間は回転寿司を控えろとなると、我慢する気はなくなります。

おそらく社会的ジレンマを解決する普遍的な方法などというものはそうそうあるものではないのでしょう。それぞれの社会問題からそれぞれの解決策を考えていくほかないのです。

おわりに

私たちはしばしば社会問題をバカな行為者たちが、バカな行為を選択した結果起こるものだと考えがちです。しかし社会的ジレンマという概念は、社会問題を合理的な行為者が合理的に行動した結果生じるものと仮定します。

そうしてみると、勧善懲悪的な、つまり世の中には悪いやつがいてそいつを痛めつければ社会は良くなるといった考えは、ほとんどのケースにおいて否決されるでしょう。

社会問題が生じる原因は、いくつかの合理的視点が相互に食い違うからであって、決してバカが多いからではありません。乱獲の問題は、ミクロな水準での合理性とマクロな水準での合理性が食い違うからであって、漁師や消費者の欲深さだけが原因ではないのです。

もちろん社会的ジレンマとして、社会問題が捉えられるようになったからといって、すぐに何かが解決されるわけでもありませんが、これらの視点の食い違いを考慮することなしには、どんな社会問題も解決しないでしょう。この点を考慮しながら、また別の機会の個々の社会問題について考えたいと思います。


*1: Diekmann, Andreas, 2009, Spieltheorie: Einführung, Beispiele, Experimente, 2. Überarbeitete Auflage, Hamburg: Rowohlt Taschenbuch Verlag, S. 105.

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