選挙の社会的ジレンマ―選挙には行くのは非合理的?


多くの社会問題は、バカではなく合理的な人が引き起こす、という社会的ジレンマについて前回お話しました。この観点に立ってみると、選挙の投票率が低いという問題にも同じことが言えそうです。つまり投票に行かないのはバカな人間だからではなく、ちゃんと合理的な理由があるということです。

ですからここではあえて、「選挙に行く無意味さ」を考えてみたいと思います。そのことで改めて選挙の大切さもわかってくるでしょう。

Election MG 3455

なぜ選挙に行かないのか、その説明は2つ考えられます。

選挙に行っても利益がないからです。どこの政党を選んでも、直接的な利益が還元されることはほぼないでしょう。すぐに給料が上がるわけではないし、求人票が増えるとも限りません。なぜ選挙に行かないのかと頭を悩ませている人は、「報酬なし、食費・宿泊費・移動費はすべて自己負担」のボランティアになぜ人は集まらないのかと頭を悩ませているのと同じです。もちろん直接利益がなくても、「目に見えない」利益(やりがいとか感謝の念)があるのだと言うことはできます。しかし、ボランティアしたことで誰かに感謝の一言を直接言ってもらえる確率よりも、投票したことで誰かに直接感謝される確率のほうがずっと低いので、この意味では投票というのは、ボランティアよりも割に合わない仕事かもしれません。

次の理由です。たとえ選挙に行って利益があったとしても、わざわざ自分が行かなくても利益を得ることはできます。民主主義制度は、その人が投票したか否か、あるいはどの党に投票したかを問わず、その利益をメンバー全員に分配することを前提としているので(実際にはそうでないことのほうが多いかもしれませんが)、なおさらわざわざ選挙に行く必要はなくなるのです。

ですから、選挙に行くことは個人にとっては合理的ではないということになるのです。この意味で経済学者オルソンの集合行為論は、なぜ選挙に行くことが合理的でないかをよく説明していると思います。

オルソンの集合行為論

経済学者のオルソンは、次のように述べています。
まさに集団によって目的や利益が共有されているからこそ、ある個人がこの共通の目的のために犠牲を払うことで得た利益はその集団の構成員全員に対して分配されるということになる。……それゆえ、共通の利益を有する大規模集団においては、個人はこの共通の利益の達成にいかなる犠牲を払ったとしてもほんのわずかな分け前しか手に入れることができない。いかなる利益であろうとも、それが集団の全構成員に及ぶために、共通の利益の達成になんらの貢献をなさなかったような人も貢献をなした人と同等の利益を手に入れることができるのである。
……少なくとも合理的な個人によって構成されている限りは、……大集団では自らの集団利益を達成するためにいっさい行動しない、というパラドックスが発生してしまう。*1
オルソンによると、集合行為には、メンバーの数が増えれば増えるほど参加するメリットがなくなるという性質があります。例えばみんな(1億人のメンバー)が協力しあって1億円の利益を得た場合、その分け前は、1人1円ということになります。それなら1000円の利益のために5人で協力しあったほうがよっぽど合理的でしょう。つまりメンバーの数が増えるほど、1人あたりの分け前は少なくなるので、利益が少なくなるというわけです。さらにみんなで協力しあって得た何かは、たいしてみんなに貢献していない人も分け与えなければならないので、このような状況では自分はなるべく何もしない(集団のためにコストを払わない)ほうが得になります。

ですから、選挙というあまりにも規模の大きな集合行為の場合、そもそもひとりあたりの利益は少ないのであり、さらにたとえ利益があったとしてもフリーライドして自分は何もしないほうが得なので、なるべく選挙に行かないほうが合理的であるということになります。

投票率向上策

大規模な集団ゆえに、集合行為に参加するメリットが見えにくい場合、つまり投票行動の場合、どうしたら個々の行為者たちに参加したいと思わせることができるでしょうか。

選挙に行くことで得られる利益または不利益をはっきりさせることが、その解決策でしょう(=選択的誘因)。つまり投票に行く人には10万円の商品券をプレゼントするとか、あるいは投票に行かない人には10万円の罰金を徴収するというかたちにすれば、それこそ選挙に行かない人間などバカという他ありません。もちろん実際には10万円という額は大げさであり、たとえばオーストラリアのように投票所の近くでバーベキューしたり、あるいは投票に行かない人には数千円の罰金を課したりすることが現実的でしょう(オーストラリアは、選挙に行く利益と不利益の両方をはっきりさせているというのは興味深いです)。

もちろん次の反論は想定されます。つまり選択的誘因で選挙に行くことで投票の質が下がるのではないかという懸念があることは理解できます。

しかし有権者全員が政治に全く興味がないというのに、罰金を払うのが嫌なので全員が投票に参加するような場合があったとして、果たしてそれは本当に悪いことでしょうか。考えられるメリットとして、局所化された利益分配よりも、公正な利益分配へと政治家が動機づけられる可能性は高くなることが考えられます。現状では、全員から集めた税金は、一部の集団のみに分配する方が政治家個人にとって合理的でしょう。公務員の給料をあげる政党は、そうでない政党よりも公務員(数百万人)からの支持を期待できるでしょう。それに対して消費者や労働者(数千万人)、貧困者(2000万人)などというより大規模な集団に対して利益を分配しようとしても、その規模の大きさゆえにひとりひとりの与えられる量は少なくなるので、果たしてそんなに少ない利益で彼らが自分たちに投票してくれるかどうかはより不確かなのです。しかし選挙が全員参加状態にあるのなら、一部の集団のみに利益を与えるよりも、より一般的な利益のために動いたほうが投票を期待できるようになるかもしれません。*2

もちろんベストなのは、投票に直接的なメリットやデメリットがなくても、自発的に政治について関心をもって投票に行く人が増えることでしょう。しかし、これはまた別の問題として考えなければならないでしょう。つまり、目に見える直接的な利益(選択的誘因)がなくても集合行為に参加することが、なぜ可能なのかという問題として考えてみる必要があります。

おわりに

オルソンの集合行為論を手がかりにして、選挙に行くのはそもそも合理的ではないという話をしました。ここで考えたかったのは、投票率の低さという社会問題もまた、社会的ジレンマの問題として捉えることができるということです。

この考え方からすると選挙に行くのは非合理です。しかし選挙に行くのは非合理なので、みんなが選挙に行かなくなったらどうでしょうか。そこで生じる結果は、民主制度の崩壊そのものであり、税金を取るだけ取っておきながら、権力者は自分の利益のためだけに好き勝手に使えるという、多くの人が望まない非合理な結果を引き起こすでしょう。

私は別の記事で、社会的ジレンマについて言及しました。社会問題は、非合理的な行為者たちによって引き起こされるのではなく、合理的な行為者によって引き起こされるのだと。


*1:Olson, Mancur, 1982, The rise and decline of nations: Economic Growth, stagflation, and Social Rigidities, Yale University Press(=1951,『国家興亡論:「集合行為論」からみた盛衰の科学』PHP研究所.)P. 45-46.

*2:ただし「より一般的な利益」の意味が、返済不能なほど高額なバラマキをすることであったり、民族主義や軍国主義に訴えることであったりする可能性、つまりポピュリズムが出てくる可能性はあるかもしれません。政治に関心のない人の投票率が上がるなら、なおさらそうなりそうな気もします。ですので、政府が一年に借金できる量を(GDP比などで)制限したり、憲法違反があった場合には、裁判所が政府に対して強い制裁を加えられるようにしたりする必要があるかもしれません。ただし、投票率の低い現状でも、日本社会はある意味この段階に達していると見ることができるのなら、ポピュリズム発生の原因はもっと別の点にあると見たほうがよいでしょう。

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