少子化の社会的ジレンマ―子どもは持たないほうが合理的?


今日は少子化問題に取り組んでみます。前回と同様に、社会的ジレンマという観点にたって、少子化の原因は、ワガママでバカな人間が増えたためではなく、合理的で賢い人間が増えた結果であるという前提から考えてみたいと思います。

pregnant woman


もうこの問題は、何十年も前からずっと語られてきましたが、ここ数年のあいだ、この議論には新しい視点が入ってきたように思います。たんに少子化は若い世代が減って年金貰えるか心配だという社会保障上の問題を引き起こすのみならず、少子化は日本の長期に渡る経済停滞の根本原因であるということが、アベノミクスの失敗をきっかけに言われるようになりました*1。たとえどれだけ金融政策を打ったところで、少子化状態ではもはや景気はどうにもならないことがわかってきたのです。しかし少子化の危険性がこれほどまでに喧伝されてもなお、出生率の改善は微々たるものに過ぎません。なぜこの問題は解決されないのでしょう。

子どもを育てることの合理的メリットはなくなった

まずもって、古代から近代に至るまでの長い歴史を見ると、それまで長いあいだ、子どもを産むことには充分な経済的なメリットがあったことを忘れてはならないでしょう。とくに農業が中心の社会では、子どもは何よりもまず労働力であり、教育など全く施さなくても数年間経てば、労働力として家計を支える道具となったのです。

さらに子どもは遺産の継承先としても有益でした。遺産を分けてやるということで、自分が生きているあいだは、子どもたちを長期間にわたって服従させることができたのです。そして子どもたち自身、家を出て稼ぐことが極めて困難でしたから服従せざるを得なかったのです。

しかし工業化と都市化は、親と子どもの相互依存関係を壊します。自分の職場と家が別々になることで、親はどれだけ仕事で活躍しても、(自営業の人たち、家族経営の会社をのぞいて)労働上の地位をそのまま子どもに移転することはできなくなります。さらに子どももわざわざ親の仕事に固執しなくても、たったひとりで別の職場を探すことが容易になります。いまや子どもは親の影響を受けないで自由に生きてゆけるようになるのです(あるいは自由に生きていくことを強制されているとも言えるでしょう)。

もちろん現在でも遺産をちらつかせることで、子どもたちに老後の面倒を見させたり、意のままに家事をさせることはできます。しかし、子どもたちは親に頼らずとも自分自身で稼げる以上、遺産の影響力は減少せざるを得ないのです。

子どもは親に服従する必要がなくなった一方で、相変わらず親が子どもの面倒を見ることは義務づけられています。それどころか、子どもを成人にするまでに必要なコストは歴史上かつてないほどに高まっています。現代社会では子どもを育てるのにかかるコストを考慮すると、いまや子どもは「負債」以外の何ものでもありません。

ですので、そもそも歴史的に考えると、子どもを持つことの(経済的・物質的・合理的な)動機づけがますますなくなっているのが現代社会です。

子どもひとりを育てる経済的コストは高すぎる

では具体的に、どの程度子どもは「負債」になるのでしょうか。

あるサイトによると、養育費および教育費(大学まで)を計算すると、およそ3,000万円(2,655~4,105万円)近くのお金がかかるそうです*2。それ以上かかるという人もいるでしょうし、もっと安く済むということもできます。しかし、この金額はあまりにも高いのは確かでしょう。
しかし、これらの直接的な出費のみならず、人件費も払うとしたらどうでしょう。「家事労働」などという言葉があります。これは主婦が毎日こなしている家事を人件費として計上した場合に、どのくらいの金額になるかを試算したものです。これと同じように「育児」する親に人件費を払うとしたら、どのくらいになるでしょうか。おおざっぱに1日4時間、時給1000円で365日働くと144万円、18年間それを続けると2,600万円にもなります。この計算では少なすぎるという人もいるでしょうし、多すぎるという人もいるでしょうが、どんなに少なく見積もっても、育児労働を総計すると千万単位のお金がとんでいくことは間違いないでしょう。

そうなると合計で1人の子どもを育てるのに軽く5,000万以上はとんでいくことになります。子どもは愛情や幸せをもたらすと言いましたが、そもそもこれほどのお金があるのなら、何か別荘でも買ったほうがはるかに幸せになれそうな気がします。

子どもの価値を愛で説明できるか

もちろん子どもの価値は、お金に換えられないものだという意見も理解できます。とくに子どもは幸せや愛情をもたらしてくれるでしょう。私自身、この立場にたちたいのですが、このことは結局のところ、いまや子どもの必要性は主観的な水準でしか考えられず、物資的・経済的な、つまりシンプルなメリットはなくなったということの裏返しでしかないのです。

さらに、幸せや愛情も重要なメリットだと考えたとしても、このことは子どもを持つことの必然性を説明できていません。人は子どもを産まなくても幸せになれますし、愛情は妻や恋人とのあいだで感じることもできるからです。

結局これらの意見は、子どもを育てることが、趣味と変わらない主観的満足としてしか動機づけられないことを示しています。しかし、そのような満足は、そのような欲望を持つ人のみに有効であって、最初から興味のない人に強制することはできないのです。サッカーファンに野球の楽しさを強制することくらい残酷なことはないでしょう。

出産への社会的圧力

たとえ子どもを持つことに目に見える合理的な理由がなくても、子どもを持たないと制裁が加えられる環境では、子どもを産む選択が合理的になるかもしれません。とくにジェンダー規範は、このような圧力を加える機能を持っていると思います。

たとえば女性は子どもを産んで当たり前という風潮は現在でも残っているように思います。子どもを持たないこと(持てないこと)で、女性としての魅力や価値がないと思われるのではないかと心配している女性も決して少なくないでしょう。

さらに男性もこのような社会規範にさらされている場合があります。子どもを養う経済力がなかったり、子どもを作る性的能力が備わっていないことで、傷ついたり負い目に感じる男性もいるでしょう。子どもは男性にとっても、経済的・社会的なステータスとして機能しているのです。

このようなジェンダー圧力にさらされて子どもを産む選択をした人は実際にどれくらいの割合でいるのかということです。私の考えでは、皮肉にもこのような社会的圧力がなければ少子化はもっと進行していたようにも思います。しかしこのことが意味するのは、もはや強制がなければ、子どもを産むことの合理的根拠は何もないことの裏返しにほかなりません。

おわりに

以上のような観点からすると、そもそも子どもを産むことにはますます合理的な根拠がなくなっているということがいえます。

次のようなデータがあります。

男女共同参画社会に関する世論調査では、「結婚しても必ずしも子どもをもつ必要はない」という考えに賛成が約4割(20代では約6割)
http://survey.gov-online.go.jp/h21/h21-danjo/images/z16.gif

いまや4割くらいの人が、結婚したからといって必ずしも子どもを持たなくてよいと考えています。もちろん「子どもをもつ必要がない」と答えたからといって、必ずしも子どもがいないわけではないでしょうから、このデータの解釈にはかなりの注意が必要です。

しかしながら、子どもを産むことが当たり前だった時代と比べて遥かに、その必要性がなくなってきているとは言えそうです。

いずれにしても、社会的ジレンマという視点からすると、「子どもを産んで当たり前」なのになぜ産まないのか問いから、「子どもを産まなくて当たり前」なのになぜ産むのかという問いへと視点を変える必要があるように思います。

*1: 吉田繁治, 2015年11月15日,「異次元緩和は失敗だった。クルーグマンの『Rethinking Japan』を読む」(2015年8月10日取得).
*2: ベネッセ教育情報サイト, 2015年9月10日, 「【保存版】子育てにかかる費用のすべてを解説します」(2015年8月10日取得).

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