日本人は日本を批判できるのか―自己言及のパラドックス



Paradox


「自己言及のパラドックス」と呼ばれるものがあります。「クレタ人はいつもうそつき」だとクレタ人が言うことはできないというパラドックスです。もしクレタ人が本当に嘘つきなら、「クレタ人が嘘つき」だというそのクレタ人も嘘つきになるからです。

このパラドックスを応用すると、日本人が日本を批判することはそもそも不可能にならないでしょうか。「日本は間違っている」と日本人が言うなら、その日本人そのものの見解が間違っていることになるのですから。

そこで疑問が生じます。自己批判などというものは、実際にはどうやったら可能なのでしょうか。

外部視点の導入

その解決策として最もシンプルな方法は、外部の視点を導入することでしょう。

ようは批判する相手が日本人でなければよいのです。日本人が(外国人の視点を借りて)日本を批判すればよいのです。

日本社会への批判を外国人に委ねる傾向は、日本社会に特徴的に見られます。「欧米は正しい」と無条件で肯定する左翼やリベラルの人たちがそうですが、政治家や官僚もまた同様です。例えば消費税の現状についての批判には、必ず外国人学者の意見が採用されます。税率を上げるときも、またそれを延期するときでもそうです。

もちろん外部視点の導入による自己批判は、必ずしも悪いものではありません。おそらく前近代社会において神は、社会の自己批判を促進する有力なツールでした。「告白」というかたちで自己批判を求めるキリスト教が典型的です。

しかしこの方法は、しばしば「権威主義」になりがちです。まさに宗教がそうであったように、その外部視点が正しいかどうかは、自分自身で判断しない(あるいはそもそもしてはならない)からです。逆にいえば、もし外部視点の正しさを自分自身で検証できるのなら、そもそも最初から外部の視点を借りてこなくてもよいはずです。

多様な視点

もうひとつの解決策は、内部の視点の多様化にあるでしょう。

日本人が間違っていると日本人が言うことなどできません。しかし日本のなかにも様々な視点があると考えたらどうでしょうか。日本人だが、同時に東京人だとか、父親であるとか、消費者や労働者、市民であるといったように、異なる様々な社会立場を想定することで、「(ある点では)日本人だが(別の点では)日本人でない」と捉えることが可能になります。

この意味で、三権分立は、自己批判の制度化に他なりません。司法・行政・立法はどれも日本に属する期間でありながら、同時に相互の監視・批判を永久的に行います。もちろん、どれかひとつの機関が強権を発動して、他の機関による批判を封じ込めたり、あるいはどの機関もお互いに対立しないように「気づかい」をしあうようになれば、三権分立は形だけのものになります。

「右翼/左翼」、「保守/リベラル」という多様な視点も、社会の自己批判には大いに役に立ちます。これらの視点は、相互に批判しあうように運命づけられていて、政治選択にとても役に立つ指標となります。ある社会がダメになってくると、保守政権のせいだった、あるいはリベラル政権のせいだったと有権者は責任転嫁することがより容易に可能になります。

しかし視点の多様化にはデメリットもあります。特に「右翼/左翼」の対立に典型的に見られますが、これらの視点の違いが深刻な対立を引き起こせば、自己批判ではなく分断が起こります。右翼(または左翼)という考えは、異なる考えを全く考慮しなくて済むための、つまり自己批判をしなくてよい免罪符になることもあるのです。

進歩史観

もう一つの方法は、進歩史観と呼んでもよいような方法です。つまり、自分たちは変わっていくべきだ、変わっていけるという未来に対する信頼や希望があれば、現在に対する自己批判は容易になるでしょう。ここでは、同じ日本人であっても、過去/現在/未来で考え方は異なるのだという視点が取られており、「ある時点での日本人と、ある時点での日本人は異なる」という視点の分化があるのです。

しかし、この観点に立てる人間は、社会的に恵まれた人たちに限られていることで、誰もが進歩を信じることは極めて困難だということです。この問題は、もっと日常的な個人の問題から考えることができます。

例えば私の友人は失業したのをきっかけにしばらく引きこもりました。クビになったのは経営者が無能だったからと開き直ればよかったのに彼はそうしないで自分を責めました。しかしそのことによってますますやる気はなくなっていきました。自分が無能な人間なら、どうして次の就職先で有能に働けるのか、無能は何をやっても無能だというわけです。進歩史観の喪失は、自己言及のパラドックスを誘発します。

失業した人にとっていちばんよい解決策は、過去は過去のことと割り切り、良くなかったところは改め、今の自分は昔と違ってより成長している(あるいは成長するだろう)という自信をもつことでしょう。しかしもしその自信がなければ、もはや失業を他人のせいにして開き直るか、自己嫌悪に陥って引きこもるかのどちらかしかありません。すっかり落ち込んだ友人に「もっとがんばれ」とも、自分の無能を恥じて一生後悔し続けろとも言えませんでした。とりあえずショック状態の彼には、すべて悪いのは会社だったと思うようにすすめることしかできませんでした。

このことは歴史認識をめぐる問題にも言えるでしょう。過去の過ちを認めて、進歩(成長)し続けることがどんな場合でも最善の選択肢です。しかし自信のない人にとって、進歩を要求されることは、自己嫌悪に陥って後悔し続けろと要求されることに他ならず、あまりにも受け入れがたいのです。だったら悪いのはすべて外国人だったと考えたくなる気持ちもわかります。近年、日本社会が歴史的反省を行うことに対する反発が起こっていますが、その背景にはここ20年(あるいは30年)全く経済成長しない日本の社会状況が関係にしているように思います。

おわりに

こうしてみてみると、自己批判がいかに難しいかということが改めてわかります。自己批判のためには、日本人でありながら同時に日本人ではないという視点の細分化が必要ですが、実際には視点の細分化は、しばしば人々の対立や分断を誘発してしまう可能性があります。

しかし、自己批判そのものを諦めてしまうなどということはできません。自己批判なき個人や社会は、いったん道を踏み外せば、もう破滅まで後戻りできなくなるからです。では、どのようにしたら自己批判は可能なのか、いずれまた別の角度から考えてみたいと思います。

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