安全保障のジレンマ―安全は保障しようとするほどできなくなる?

8月15日に終戦記念日を迎えたこともあり、今回は、現在の日本の安全保障政策と憲法9条について考えてみたいと思います。

他国の軍事的な脅威があるなら、抑止力を高めることが必要だという主張があります。しかし、こちらの抑止力を高めることが、相手に軍事的脅威だと認識されたらどのようになるでしょうか。相手もまたさらに抑止力を高めようとするでしょう。そうなったとき、こちらもさらに抑止力を高めなければなりません。しかし相互に抑止力を高めあえば、際限ない軍事費を前に双方とも損をすることになります。

US and USSR nuclear stockpiles


このような安全保障のジレンマという認識を持つかどうかで、日本の安全保障の議論はかなり分かれるのではないでしょうか。このジレンマを考慮するなら、憲法9条は、ジレンマの解消にいまだに有効であると言えます。このジレンマを問題視しないなら、憲法9条は、狂気以外の何ものでもありません。ジレンマを想定するかどうかで見方は180度変わりえます。

安全保障のジレンマとは

このブログでは、(バカの一つ覚えですが)社会的ジレンマという前提から、社会問題を考察してきました。つまり、社会問題(あるいはみんなにとって非合理な結果)とは、非合理的な人々ではなく、合理的な人々によって引き起こされるという発想です。このことは国家について当てはまります。

私たちの安全保障を脅かしているのは、北朝鮮や中国のような軍備を拡大している国家です。しかし社会的ジレンマの発想に立ってみると、これらの国家もまた私たちと変わらず合理的な判断をしていることになります。つまり、世界征服などを企んでいるのではなくて、たんに自国の安全を高めようとしているだけなのです。

しかし、日本にとってはまさにそのことが軍事的な脅威になのですから、改憲や集団的自衛権の確立、あるいは軍備増強によって自国の安全を高めることには正当性があります。このように主張する人は、しばしば国民を戦争へと扇動していると批判されますが、私の考えでは、このような主張で他国に侵略しようと本気で考えている人などほとんどいないでしょう。ただ日本への侵攻を思いとどまらせ戦争を回避したいという「平和」的な考えを持っている人がほとんどだと思います。

しかし、「平和的」に抑止力を高めようとする行動が、実際に「平和」的結果をもたらすかどうかはわかりません。周辺国は、日本の「平和」的行動を軍事的脅威と認定し、自国の軍備を拡張するための口実にする可能性も考えられるからです。日本は改憲によって侵略の準備をしているとプロパガンダする軍人や官僚、あるいは外部に敵を作ることで国内の不満を解消したい政治家が他国にいないとも限りません。

したがって、安全保障を強化するという行動が、安全保障を脅かすというパラドックスを生む可能性があるのです。その結果を待っているのは、膨大な財政負担ですが、場合によっては、破滅的な戦争を引き起こすこともありえます。2つの世界大戦は、軍拡競争の結果起こったと考えられますし、冷戦下の核競争においても、キューバ危機という一触即発の事態が生じました。

双方が自国の安全を高めるために合理的に軍備を拡大していった結果、双方とも破滅の恐怖に直面するという非合理な状況が起こりうるのです。

安全保障のジレンマ対策としての憲法9条

私自身の考えでは、憲法9条は、こうした安全保障のジレンマを避けるために制定されたのではないかと思っています。憲法9条制定に強く関わった幣原喜重郎は、次のようにその経緯を回顧しています。
非武装宣言ということは、従来の観念からすれば全く狂気の沙汰である。だが今では正気の沙汰とは何かということである。武装宣言が正気の沙汰か。それこそ狂気の沙汰だという結論は、考えに考え抜いた結果もう出ている。要するに世界は今一人の狂人を必要としているということである。何人かが自ら買って出て狂人とならない限り、世界は軍拡競争の蟻地獄から抜け出すことができないのである。これは素晴らしい狂人である。世界史の扉を開く狂人である。その歴史的使命を日本が果たすのだ。*1
明らかに彼は安全保障のジレンマに着目しており、その解決策として憲法9条を強く望んだと解釈できるでしょう。憲法9条は非合理だという人がいるのですが、確かに軍拡のジレンマを考えなければ、それは「狂気の沙汰」以外のなにものでもありません。彼自身がすでに充分すぎるほどにそのことを認識していたのです。それにも関わらず、9条という「狂気の沙汰」に走ったのは、安全保障のジレンマを解消が、日本の発展にとって必要不可欠であったと考えたためでしょう。

しかし、9条の存在が、日本国内の軍拡を抑止する機能を持っていたことは間違いないのですが、東アジアに平和をもたらす機能を持っていたとは限りません。日本がどのような戦略を取ろうが、戦後の世界は、常にアメリカかソ連の軍事的脅威に晒されていたからです。

実際、幣原の考えていた完全非武装は、米ソが対立するなかでは長くは続きませんでした。完全非武装は、その背後で在日米軍が日本の防衛を代わりに行っていたからこそ可能であったのであって、1950年に朝鮮戦争が始まり、在日米軍が海外に主導するようになると、警察予備隊を創設して、日本は自ら防衛をしなければならなくなったのです。

それ以降、「専守防衛」が日本の基本的な軍事戦略になります。この概念は、幣原が考えていたよりもずっと抽象度の高い複雑な発想です。非武装化など現実的ではないという主張にも応じつつ、他国の軍拡を誘発しないように様々な制限を加えました。爆撃機や空母など侵略に利用可能な装備を一切持たないことで、軍拡競争を抑止しつつも、ちゃっかり再武装して防衛力を高めるのです。極言すれば、専守防衛とは、再軍備するが再軍備しない、軍隊を持ちつつ軍隊を持っていないという矛盾した考えだとも言えます。しかしそれは同時にイイトコどりでもありました。抑止すべきは他国の脅威か、軍拡競争かという、ふたつの相矛盾しあう考えの止揚という意味で、イイトコどりだったのです。

しかし近年、専守防衛戦略もまた批判されるようになってきました。先制攻撃を徹底的に禁止するということは、国民に死人が出ない限り反撃しないということであり、それは狂気の沙汰だというのです。ただしこの考えには疑問もあります。先制攻撃させないよう、敵の基地に向けてミサイルを配備することは、相手にとって先制攻撃を受けるリスクが高まることを意味しますから、ますます相手は先制攻撃する動機を高めることになるのではないでしょうか。こちらが先制攻撃させないよう振る舞うことで、ますます先制攻撃を受けるリスクにさらされる可能性があるのです。

あるいはそもそも専守防衛など幻想だという意見もあるでしょう。専守防衛はアメリカの庇護下においてのみ可能だったに過ぎず、そのアメリカの軍事的影響力が低下してしまえば、9条など全く無意味だというものです。もしアメリカが撤退するなら、日本が再び軍拡して抑止力を持たねばならなくなるのは必然というわけです。

ただそれでも改憲を現実的と考えるのには躊躇してしまいます。いくら改憲して軍拡したり自衛隊の活動範囲を広げたり、軍事同盟を強化しても、それが相手の軍拡を誘発すれば、何の意味もありません。いったん軍拡競争が始まれば、どちらかの経済が崩壊するまで永久に軍備増強するというチキンレースに参加することになります。経済力にも資源にも乏しい日本が不得意とする競争です。安全保障のジレンマへの対策がない限り、「普通」の軍隊を持ったところで何も解決しないどころか、ますます安全が脅かされる事態を引き起こしかねません。

おわりに

安全保障のジレンマというものを全く想定しないと、現行の憲法9条はあまりにも狂った制度です。しかし、このジレンマを考慮するなら、憲法9条下における専守防衛は、いまだにバランスの取れた戦略であると言えます。いま目の前に軍事的脅威があるじゃないかという人にも、軍拡競争に巻き込まれたらどうするんだという人にも対応することができます。

もちろん専守防衛にもデメリットはあります。この概念の複雑さです。軍を持ちつつ軍を持っていないと言うのはどうみても矛盾以外の何ものでもありませんから、これを子どもに理解させようとしたらかなり苦労するのではないでしょうか。実際にこの矛盾した考えのもとで自衛隊を機能させようとすると、天文学的な文書が必要になることは間違いのないことです。

もちろんいちばん良いのは安全保障のジレンマを抑止しつつ「普通」の軍隊を持つことです。そのためには、改憲するよりも前に、いかにこちらに攻撃の意図がないかを周辺国に納得し、信頼関係を構築しなければなりません。

この点において歴史問題は早急に解決するべきだと思います。過去の戦争を正当化する言説や振る舞いは、(実際にそれが正当であるかどうかは別にして)相手国にとっては日本が侵略的意図を持っていると映ります。とくに「第2次大戦の侵略の歴史が『侵略』かどうかについて定説はない」と自衛隊を動かすことのできる政治家が言う場合にはそうです。単純すぎるやり方かもしれませんが、政府主催で毎年、過去の侵略についての反省を表明する式典などを行ったほうがよいかもしれません。

また改憲の際には次の方法も必要かもしれません。日本の軍国主義を正当化する言動や振る舞いをしたり、そのような主張をもった組織に関わるなど、過去に一度でも日本の攻撃的意図を仄めかしたことがある人を改憲に関わる職務から遠ざけるという工夫です。別に彼らの思想に正当性があるかどうかは問題ではありません。信頼関係を構築するために既存の人事を変えるというのは、誰もが用いるごく普通の方法です。一度不祥事をやらかすと、たとえそれが違法ではなかったとしても、もうその人のあらゆる言動が信じられないということはよくあることです。その際に、その政治家は自らの正当性をアピールすることもできますが、いちばん手っ取り早いのは辞任することです。政府の要職(とくに総理大臣、防衛大臣、外務大臣)や、(官僚も含め)改憲や軍事戦略の見直しに関わるグループには、そのような経歴のない人を選ぶことが大切かもしれません。



*1: 「幣原喜重郎元首相が語った日本国憲法 - 戦争放棄条項等の生まれた事情について」, 2016年8月15日取得.

0 コメント:

Post a Comment