宗教とは何か―本当はみんな宗教を必要としている?(2/2)

前回は、いまどき宗教など全然必要ないのに、信仰を持つ人がいるのはなぜなのかということについて考えました。過酷な現実を生きる不幸な人に対して、一定の救いを与えるのが宗教であることがわかってきました。しかし今回は、そうした不幸な人だけに限らず、幸福な人も宗教を必要としているとする社会学者トーマス・ルックマンの議論があります*1ので、それを見ていきたいと思います。

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彼の見解は、大雑把にまとめるとこうです。宗教はどんな社会でもいつの時代でも(現在でさえ)人間にとって必要なものです。しかし需要それ自体は相変わらず存在しているのに、キリスト教や仏教など古くから続く既存の宗教組織が、時代の変化についていけず現代人の宗教ニーズに対応できなくなってしまったのです。

宗教への根源的欲求

では、古代から現在まで変わらず存在し続けている宗教ニーズ*2とはいったいどのようなものなのでしょうか。

人間は本質的に、自分が直接経験したものに対して何かそれ以上の意味を込めたがります。見たものをただ見たように捉えるだけでは決して満足せず、そこには個々の具体的経験を「超越(Transzendenz)」した何かがあると思うものです。例えば、現在は、過去や未来という目の前に存在しない時間と関係していると感じたり、自分が何かを経験するとき、その場にはいない他者がどう感じたかも気にしてしまうといったことがあります。このように時間的・空間的な隔たりを越えて他人とつながっているという感覚は、人間がもつ社会性に根ざしたものなのです。「超越」などという言葉を持ちだすと、狂信的で錯乱した人のように思われてしまうかもしれませんが、しかしそもそもそれは、個人と社会を結びつける「社会化」のためには必要不可欠なものなのです*3。 

このように考えてみると、人間が他者とのつながりを求めたり、他者と何らかの経験を共有したいと思う限り、必然的に宗教は必要になってきます。信仰を求める人が不幸なのか幸福なのかは問題ではありません。人間が、社会的な存在であり、野蛮な動物とは異なっているという自意識を持つ限り、宗教は必要なのです。

しかし古代社会では誰でも宗教が必要だったかもしれませんが、本当に現代でも宗教は必要なものなのでしょうか。ルックマンの考えは、宗教の「人類学的起源」(根源的欲求)は現在でもずっとあるのに、宗教の「制度」がそれに対応できていないという点にあります*4

 宗教の制度化とその衰退

ある人が超越的な経験をしたというだけでは宗教は始まりません。それがまず言語として客観化されなければならないのはもちろん、さらには儀礼や教会(寺院)によって「制度」としても客観化されなければなりません*5。こうして主観的な超越経験は、社会的に安定し、固定化されるのです。 

しかし宗教が制度化されると、しだいに宗教は硬直するようになります。このことは例えば大学を例にしてみればわかりやすいでしょう。知的な欲求がなければ、どのような学問も存在しないでしょう。しかしこれが大学として制度化されると、いまやそれぞれの学生が知的欲求を持っていなくても、卒業するために研究するようになります。このことが宗教にも当てはまるのです。

さらに社会の近代化がこれに追い打ちをかけます。近代社会においてはすべてを説明する絶対的な世界観などというものはありません。かつては政治や経済、学問等、様々な社会領域が、宗教の世界観に合致する場合にのみ認められていましたが、いまやそれぞれの社会領域が独立性を持つようになり(機能分化)、どれが最も重要か序列化することなどできません。宗教的に重要な意味は、経済や政治、学問等、他の社会領域のなかでは重要でなくなるのです。いまや宗教は、普遍的な世界観ではなく、様々な世界観のなかのひとつでしかなくなるのです。いわば世界観という商品「カタログ(Sortiment)」*6に掲載されるジャンルのひとつになっているのです。 

既存の宗教が対応できないのはこの点です。宗教が胡散臭いのは科学的でないからなのではなく、宗教だけですべてを説明できるわけがないのに、あたかもできるスタンスを崩さないからなのです。近代化のなかでは、人々も世界すべての説明を宗教に期待しなくなります。気にしているのは、「世界」よりもむしろ「個人」であり、自分自身の生きる意味なのです。輪廻転生が世界の仕組みなのか、キリストが本当に復活するかどうか、などというのはどうでもよくなります。

現代の見えない宗教

近代化のなかで宗教的欲求は、いかに私的な領域のなかで「意味」を感じられるかということに限定されるようになってきます。このような状況のなかで、個人の存在をどのように意味づけるか、どのようにドラマティックに演出するかが、新しい宗教の主要なテーマとなってくるのです。つまり、自己実現(Selbstverwirklichung)やアイデンティティの確立(Selbstbestätigung)*7が何よりも宗教的な関心事になります。

セクシュアリティと宗教

ルックマンは、自己実現のために「セクシュアリティ」もまた重要なテーマになっていることを指摘しています。セクシュアリティは、現代という時代にあってさえ超越的な経験を可能にする根源的方法なのです*8。性的快楽は、自分自身に肉体的快楽をもたらすと同時に、他者とのつながりも喚起するのであり、この点で個人的な主観から超越的経験へと至るために最も手っ取り早い方法だといえます。 

性には宗教的意味がある云々などと言うと気持ち悪い感じですが、しかし私はときどきどうしてこんなに現代社会では性が氾濫しているのかとふと思い返すことがあります。街でもメディアでもいたるところで性を惹起する情報が溢れかえっています。ここでいう性とはポルノだけに限定されません。未成年の少年少女でも誰と付き合うかが最大の関心事であるという人は決して少なくないはずです。こういう傾向に対しては、若者は道徳的に退廃していると非難されますが、もしかすると起こっているのは全く逆かもしれません。性への高い関心は、むしろ自身の生きる意味を超越的に感じたいがゆえに起こっているのであって、(それは宗教的であるという意味で)極めてマジメなものなのです。

家族と宗教

ルックマンは、家族主義もまたセクシュアリティと並んだ重要な宗教的テーマだと考えました*9。家族こそが人生の意味となっているのです。つまりそれは一方で自分自身のアイデンティティの拠り所となり、他方では、家族という他者との関係性に強い「意味」があることを換気します。もちろんかつても家族はほとんどの人にとって人生の意味の中心でしたが、近代以前に家族は、親密な共同体であるよりも前にまず企業であり政治的な場でもありました。社会のすべてが家族に詰まっていたのです。しかしいまや家族は、社会から逃れたプライベートな場所であるがゆえに価値を持つようになったのです。 

私の考えでは、家族とは、セクシュアリティに裏打ちされた恋愛関係の「制度化」であると位置づけることができます。すでに述べたように、主観的な超越経験は、制度として客観化されて初めて安定します。一度制度化すると、本当に愛があるのかどうかその都度確認しなくても、愛を維持することができるようになるのです。もちろんそれゆえに、いったん制度化されると、愛に関する主観的経験と、結婚という「制度」との食い違いが起きるリスクがあるわけですが。

 いずれにしても、現代社会においては超越的な経験や生きる意味が、もしセクシュアリティなどの私的な領域においてのみ成立しうるのなら、既存の宗教がなかなかこの現実に対応できないのも頷けます。なぜなら、まさに既存の宗教は、セクシュアリティのような「動物的」(あるいは俗世的)な経験から離脱することにこそ超越的な意味を感じてきたからです。あるいは家族という内輪の関係を越えたもっと広い社会関係を想像できるようにするのが宗教の役割でした。それに対して、現代の人々は「極端に俗っぽい(radikal diesseitig)」*10ものにこそ、超越的で神聖な意味を感じるようになっているといえます。

おわりに

「超越」的経験は、人間の持つ社会性に根ざしたものであり、世俗化した現代社会にあってもいまだに重要なものですが、今日では既存の宗教制度の代わりにセクシュアリティや家族の関係が、この超越性を提供している。このように宗教を捉えてみたとき、たんに既存の宗教制度が時代に対応できていないだけで、いまだに宗教は誰にでも必要なものであるといえます。

しかしこの新しい宗教は、ルックマンが指摘しているように目に見えにくいという問題点があります。自己啓発やポルノ文化、サブカルチャー、若者論などは、個人が生きる超越的意味を与える新しい現代宗教であるかもしれませんが、結局のところ、宗教として制度化されているわけではない以上、その内実はよくわかりません。

ルックマンの定義はあまりにも広すぎるので、そもそも議論しづらいといった問題点もあるかもしれません。しかしこの広すぎる定義から、様々な日常の出来事を宗教として捉え直していく作業は、おもしろいかもしれません。恋人・結婚・子どもなどに恵まれないと、自分には人間として存在価値がないかのように落ち込んでしまう人がいるものですが、もしかするとこのような人が感じているのは、宗教の教理から逸脱し破門を言い渡されたときに感じるものと似ているかもしれません。



*1: Luckmann, Thomas, 1964, Religiöse Strukturen in der säkularisierten Gesellschaft, EZW-Information Nr.12: Stuttgart.を参照
*2: 彼はこのような根源的な宗教ニーズを、宗教の「人類学的土台」と呼んでいます。同上p.2
*3: 同上p.2-3.
*4: 同上p.7.
*5: 同上p.5-6.
*6: 同上p.9.
*7: 同上p.12.
*8: 同上p.12.
*9: 同上p.13.

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